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岡城・阿蘇神社訪問
新装置の為の初回打ち合わせが終わったと同時に、この前やっと据付が終了した装置上で第2回目の生産が開始され大きなトラブルもなく終了することが出来た。これでほっと肩の荷が下りたし、恐らく土曜日の臨時出勤はしばらくは無いと思うので、やっと仕事に終われる日々とおさらば出来そうだけれども、まだ残件が残っていてあと少し頑張らなければいけないようです。でも、最後の頑張りのところまできています。
さて、冬休みに行った九州旅行の話を、流石に2ヶ月以上引っ張りたくないので、とにかくUpdateを頑張らなければ!
...と言いながら、相変わらず土曜日はぐったりして、日曜日はガルパン劇場版4DXを見に豊川というかなり遠いところまで出かけて(豊川を豊田だと直前まで勘違いしていて、えらい目にあいました)さらにぐったりしてしまい、自分のノルマにしていた最低週1回Updateの目標をあっさり破ってしまったのが情けない...って、確かガルパンがらみのこのパターンはつい3週間前にもあったような気が。う~ん...。
まぁ、過ぎたことは仕方がないので、気を取り直して今回は、阿蘇周辺の史跡めぐりということで、大分県竹田市にある岡城址、そして熊本県阿蘇市にある阿蘇神社への訪問を書いて見ます。
1.岡城訪問(大分県竹田市大字竹田)
熊本から別府方面へ抜ける国道57号線を東に向かって進み、阿蘇山の南側をかすめ更に東へ20km程進むと、山間の静かな城下町竹田市に到着します。岡城は竹田市の東方にある天神山の山頂に築かれ、大野川の支流である稲葉川を北に、白滝川を南に配する自然の濠を持った堅城で"日本三険城の最上"などと紹介されることもある城です(但し、この日本三険城のうち他の2城は確定しておらず、岡城の難攻不落さをあらわす一種の形容詞的なもののようです)。
1)岡城の歴史
岡城の始まりは、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって古くからあった山城が拡張され、岡城と名付けられたと言われています。
この岡城を一躍有名にしたのが、天正14年(1586年)、薩摩の島津氏が九州全域を配下に置こうと豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し最後まで落城しなかったことで(一説によると、三万七千の薩摩軍をわずか千名の兵で撃退したとも言われていますが、それは流石に誇張なのでしょう)、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けています。これが、岡城を"日本三険城の最上"と言わしめる故事となっています。
しかし、豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなってしまいました。そして翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施し二の丸・三の丸を整備しました。 その後中川氏はこの地を動くことなく、明治をむかえました。
2)岡城訪問
国道57号線を竹田市街手前で分岐し、国道502号線で岡城の南側から岡城駐車場を目指します。やがて左手側に本丸石垣が見えてくると胸が高鳴ります。ちょうどその時車が路面の細かい凹凸を拾って音を出し始めるので驚きましたが、その音をよく聞いて見るとそれは雑音ではなくメロディになっていて、昔、小学校で習った滝廉太郎の"荒城の月"であることに気が付きました。
実は、荒城の月に出てくる古城は、この岡城のことで、作曲者の滝廉太郎は、竹田市出身の人なのです。それゆえ、岡城近くの道路には、このようなちょっとした仕掛けが仕込んであるのです。
さて、岡城前の駐車場について見ると、真正面には西の丸の石垣が聳えているのが見えていやがおうにも古城探訪への気持ちが高ぶります。

ここの入場券販売所で入場券の支払いと案内書をもらえるはずなのですが、さっき駐車場の入り口に年末年始無料の旗が立っていたのでイヤな予感がしていたところ、案の定販売所は年末のお休みで100名城スタンプも押せないと言うことになりガックリ...
福岡城に次ぐ2回目のスタンプ押せないトラブルなのですが、本当にもし、ちゃんと観光のことを考えているのなら、休みの間、駅の構内もしくは観光課などに100名城スタンプを預けることを真剣に考えてください。実は、100名城の中には、入場料を払わないお城も含まれていて、そういうお城では城内のちょっとした休憩所に盗難防止用に鎖で縛る等の工夫をして、タンプが用意されたりしているので、岡城や福岡城も同じ工夫が出来ると思うのです。是非、来城した人をがっかりさせない工夫を考えて欲しいと思っています。
さて、落ち込んでばかりいてもしょうがないので、駐車場から大手門のほうへ歩いていきました。

大手門の入り口が見えて来ました。すごい石垣だなぁ。

登城道をどんどん登っていきます。


やっと大手門石垣が見えて来ました。この大手門石垣だけみると西洋のお城みたいですね。また、登城道の崖側の壁の上部は丸くかまぼこ状なっており、これも沖縄風の異国情緒が漂う造りになっています。

城内側から見た先ほどの大手門。
さて、城内に入り右手側へ行くと本丸へ、左手側に進むと西の丸へ行きますが、まずは西の丸から巡ってみます。
以下の俯瞰図から見ると、図面左下の大手門から左方向へ西の丸へ歩いていくことになります。
(この俯瞰図は、いつものように余湖様のホームページから転載させて頂きました。)


西の丸。

西の丸の石垣。駐車場から見上げた石垣はここになります。

西の丸から本丸方向へ進んでみます。

三の丸手前の櫓門(西中仕切り門)前。

ここから見る三の丸及び二の丸北側の石垣が、城郭の本にもよく掲載されるアングルの写真です。本当に素晴らしい高石垣ですね。

西中仕切り門を抜けると直ぐ三の丸櫓門(太鼓櫓門)が見えます。

この三の丸櫓門を抜けると、左手側が二の丸、そして正面に本丸の石垣が見えて来ました。この主要部である三の丸、二の丸、そして本丸はとても狭く密集しています。

二の丸へ入る脇から本丸への階段を上っていきます。


本丸到着。本丸は、長手方向が50m程の角形で、本丸の南西端に本丸から見ると殆ど高さの無い天守台があります。ここにはかつて三層天守が存在し、他に二重櫓、御金倉などが建っていました。下は、かつての岡城の古写真です。


本丸を西に進んでいくと天満神社の社が見えました。

小さなお社ですが、御祭神が菅原道真公で、かつ岡城は落城しない城=落ちないということで、結構受験生に人気がある神社とのことです。みんなこういうことを良く思いつきますね!
さて本丸を降りると、本丸北側の二の丸の方へ廻ってみます。二の丸の一角には滝廉太郎の像が建っていて、背後の山並みとのコントラストが美しく、絶好の像を背後にした撮影スポットと言う感じでした。

下は、先ほど見た二の丸から見た三の丸の石垣です。先ほど西中仕切り門前から見た石垣を、逆側から見ることになりますが、相変わらずこの石垣は素晴らしいですね。

そして、二の丸側から見た家老屋敷側の石垣。今度はあちらへ行くことを目指します。

三の丸を出ると西の丸の北側を通って家老屋敷側へ歩いていきます。


家老覚左衛門屋敷の跡。ここでは面白いことに屋敷の床の平面だけがが復元されていました。
これは中々面白い試みではないでしょうか。

家老屋敷側から、本丸側を望みます。

その他の家老屋敷側へ移動してみます。


西の丸北側の家老屋敷跡。


家老屋敷西側の搦手門の石垣。

その後、西の丸を南側から眺めながら大手門へ戻り、その後駐車場へ向かいました。

今回は、これにて岡城を後にしましたが、スタンプを押せなかったのでもう一度ここに来なければなりません。
まぁ、何度も訪れたくなる名城だし、竹田市街も巡って見たお所があるので、再訪するのはいいのですが、簡単に来れる場所ではありませんので、後回しにはなるでしょうね。参ったなぁ...
最後に、豊後竹田駅に寄って落門の滝と言うのを見てみました。実は、豊後竹田駅は、日本でも珍しい滝の近くにある駅なのです。


そのほか、竹田市には世界でも類を見ない炭酸濃度の高さを持った長湯温泉という温泉があり、そこには是非行って見たいですね。武家屋敷が残る古い街並みもあるので、次回に竹田に来るときは、じっくりと時間を取って来てみたいですね。
2.阿蘇神社訪問(熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1)
今回の九州旅行では、阿蘇神社へ初詣に行ってきました。今頃初詣のネタなんて本当に遅すぎ...
1)阿蘇神社の社史
阿蘇神社は、紀元前282年、第七代、孝霊天皇のころ、燃え盛る阿蘇山の開拓の為に使わされた「健磐龍命(タケイワタツノミコト)」(神武天皇の孫にあたる)を主神として、お妃の阿蘇都媛命(アソツヒメノミコト)阿蘇初代国造の国造速瓶玉命(クニノミヤツコハヤミカタマノミコト)を含む十二神を奉ったことが始まりとされています。阿蘇神社としての創建は第12代景行天皇が国造速瓶玉命の子である惟人に命じて創建させたと伝えられます。
阿蘇山火口にあります阿蘇山上神社が上宮で、一の宮町にあります阿蘇神社は下宮とされますが、噴煙で怒り狂う阿蘇山をおろがみて、鎮めの為の祭祀を行う場所でもありました。
この一ノ宮にある阿蘇神社は、全国に約450社ある阿蘇神社の総本社であり、古代からの有力氏族である阿蘇氏が現在も大宮司を務めています。現在の大宮司は、阿蘇家の91代目が務めています。
2)祭神
以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称されています。
一の神殿(左手、いずれも男神)
一宮:健磐龍命 - 初代神武天皇の孫という。
三宮:國龍神 - 二宮の父で、神武天皇の子という。
五宮:彦御子神 - 一宮の孫。
七宮:新彦神 - 三宮の子。
九宮:若彦神 - 七宮の子。
二の神殿(右手、いずれも女神)
二宮:阿蘇都比咩命 - 一宮の妃。
四宮:比咩御子神 - 三宮の妃。
六宮:若比咩神 - 五宮の妃。
八宮:新比咩神 - 七宮の娘。
十宮:彌比咩神 - 七宮の妃。
諸神殿(最奥、いずれも男神)
十一宮:國造速瓶玉神 - 一宮の子。阿蘇国造の祖という。
十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。第2代綏靖天皇を指すという。
3)阿蘇神社への初詣
阿蘇山の南、国道57号線沿いに阿蘇神社はあります。車を臨時駐車場へ置くと、表参道のほうへ歩いていきます。

北鳥居を潜ると表参道を歩いていきます。実は、阿蘇神社は全国でも珍しい横参道で、正面遠方には反対側の南鳥居が見えました。この横参道を左手側に阿蘇神社を見ながら進んで行くと、右側に下写真のような手水舎が見えて来ました。

この手水舎は「神の泉」と呼ばれていて、その横に伸ばされた青竹から水がとうとうと流れていました。「神の泉の由来」という説明書きには「一の宮町はむかしより地下水の噴出する[清泉の町]として知られております。とくにこの神域に湧き出ずる水は美味芳醇な神の泉として珍重され、不良長寿の水として多くの人々に飲用されています。」と書かれていました。
この手水舎で手を清めた後、背後を向くと、そこが阿蘇神社の正面でその入り口に大きな楼門があります。

この楼門は仏教的な要素を取り入れた二層楼山門式と呼ばれる様式で造られ、高さは何と21mもある巨大なものです。この様な建築様式の楼門は他の神社に例が無く、その希少性から日本三大楼門の一つとされています(その他は茨城県の鹿島神社、福岡県の箱崎宮の楼門が日本三大楼門と呼ばれています)。

また、そこに掲げられる「阿蘇神社」と書かれた額は、明治維新で活躍された有栖川熾仁親王による御染筆とのことです。
この楼門を潜ると、正面にある拝殿と対面することになります。この拝殿の奥に、一の神殿、二の神殿そして諸神殿が鎮座されていますが直接拝することは出来ず、正面の拝殿の向かって左側の一の神殿の拝所及び右側に二の神殿の拝所から拝することになります。

拝殿での参拝を済ますと、年初めのおみくじを引いて見ます。自分は初詣で引いたおみくじをその年の運勢としてきているので、毎年気合をこめて初詣のおみくじを引いています。

さて、今年の運勢は...何と大吉でした!今まで、初詣のおみくじで大吉を引いたことは無かったので、今年は期待できるというより、頑張ってこのおみくじの通りにしたいですね!
さて、この阿蘇神社の境内には、拝殿へ参拝する以外に以下のような面白い言い伝えのようなものがあります。
高砂の松(えんむすびの松)
この松のまわりを女性は右回り、男性は左回りに2回まわると良縁に恵まれると伝えられています。
これには以下のような縁起があるとのことです。
”上京途中の神主友成(阿蘇神社宮司)が名所高砂の浦に立ち寄ると、媼が浜の松葉を掻き清めています。そこで離れたところに生えている高砂の松と住吉の松が相生の松といわれる由緒を尋ねると、山川を隔てるとも夫婦の愛は通いあうものと答え、自分は相生の松の精であると告げ、住吉で待つと舟に乗って去ります。
友成も住吉に至ると、住吉明神が現れ、御代を祝って舞う姿を拝することができた。”

自分が初詣に行った日にも、若い女性の方が数人連れ立って回っていました。こういうのは女性の方がやっているのは微笑ましく感じますが、男がやっているのは...あまり見たくないなぁ。これは差別じゃありませんよ?
願かけ石
阿蘇大明神(建磐龍命)がもろもろの願いを込めて拝まれた「霊場の岩石」のひとつで、古くから神石として伝わってきたありがたい石とのこと。
作法は、「まず心に願い事を念じ、この神石を3度撫で、さらに願い事を唱えるとよい」とされています。
高砂の松の印象が強すぎて写真撮るのを忘れました。一応上記写真で、高砂の松の左奥に写っています。

その後、甘酒を飲んで阿蘇神社を後にしました。
3.稲積水中鍾乳洞
岡城、阿蘇神社と行った後、ちょっと時間が余ってしまってどうしようかと思っていたところ、前日宿泊した阿蘇羅というゲストハウスの宿泊客の方から、水中鍾乳洞というのがあるので行ってみてはどうかと言われたのを思い出しました。ただ、その方自身も行ってみたことは無いとのことで、お勧めすることはできないけれどとも言っていた場所なので、どうしようかと悩みましたが、もうひとつの候補の黒川温泉はここからかなり遠いので、この稲積水中鍾乳洞へ行ってみることにしました。(今考えれば、この時、黒川温泉もしくは長湯温泉に行っておくべきだった...)
稲積鍾乳洞は、岡城の前を通る国道502号線を岡城からさらに東へ一時間ほど行き、そこから県道45号で南へ少し入ったところにあります。
駐車場に車を停車し、券売所の方へ歩いていくと、そこは思ったよりも大きな建物で、どうもここは鍾乳洞の見学だけではなく、いろいろなテーマパークの合体施設のような所でした(実際、鍾乳洞以外の施設の印象の方が強烈でした)。

何となく、田舎の秘宝館のような胡散臭い雰囲気が思いっきり漂っていましたが気にしないことにしてLet's go!です。だって、もう到着してしまったのだから仕方がない。それでは、入場券を買って鍾乳洞へいざ出発!

鍾乳洞入口前。ここの雰囲気は中々よかったです。


最初は新生洞のほうへ行ってみます。

新生洞の最深部。この派手なライティングは意外と鍾乳洞の雰囲気と合っていて良かったです。

こちらは水中洞側の最深部。水の青さが印象的でした。


鍾乳洞の中は、思ったより広く、そして思ったよりよく整備されていました。ただ、残念なことに典型的な鍾乳石といったものがあまりなく鍾乳洞としての迫力に欠けるといいますか、ありていに言えば単なる洞窟っぽい感じがしてしまうところがイマイチでしたね。
ただ、それは山口県の秋吉台や、岩手県宮古の龍泉洞などに比べればちょっと見劣りするというくらいで、全くダメとかいう意味ではありませんので念のため。
さて、鍾乳洞から出てくると、出口はそのまま昭和タイムトリップ館に繋がっています。
このタイムトリップ館は無料で拝観できますが、こちらは意外と凄かったです。下はこの博物館の入口です。
かなり多くの人は入口に書かれている文字をストリップと読み違えるハズ...

もちろんこれは、タイムトリップと書いてあります。



料金は無料とのことなので、個人的なコレクションをただ展示しているだけということなのでしょうが、量もすごいし展示の仕方も、昭和の店先を再現するという凝り方で、しかもその再現率がかなり高いのです。いや、これは中々大したものです!


うわ、これはもの凄く懐かしい。この当時宇宙戦艦ヤマトにハマっていた自分は、この戦艦大和の巨大プラモデルが欲しくて、おもちゃ屋に行ってはよく眺めていましたっけ。しかし、本当に昔は、こんなプラモデルしか無かったんだよなぁ。

最後に、この昭和タイムトリップ館を出ると、なんと出口は昔の映画館の形をしています。凝ってるなぁ~。

この昭和タイムトリップ館を出ると、そこは仏の里とかいう庭園になっていて、まぁ何というか本当に胡散臭かったです。庭園のあちこちに仏像(というかちゃんとした仏教に基づく仏像には見えないのいので創作仏像というべきもの?)が置いてあって、それはどんな形の仏像でも自分は全く構わないのですが、その全ての創作仏像の前に浄財と書かれた箱が置かれているのがちょっとなぁ...。これ、例えば誰かが間違ってこの箱の中に賽銭のつもりでお金を入れてしまったら、この庭園の管理者はその金をどうするつもりなのでしょうか。もし、この庭園の管理者が、賽銭箱のつもりでこれらの像の前に浄財と書かれた箱を置いたならば、そこに入っていたお金は宗教活動のために使われなくてはなりません。でも、これらの像が正統派の仏像には見えないので、ちゃんとした宗教活動に使われるようにはちょっと思えないのですよね。まぁ、実は、この仏の里が、新手の宗教法人に管理されていて、これらの仏像は全て、その新興宗教に属しているということなのであれば、入れられたお賽銭はこの庭園の管理に使われると言うことで筋は通るとは思いますけれども。でも、それならばちゃんと、その新興宗教名を明示して、こんな見ようによっては既存の仏教にも見えるようなあやふやな展示の仕方をせず、既存宗教とは別であることをはっきりさせてもらいたかったですね。
でも、もし本当に、これらの創作仏像が新興宗教のものであるならば、最近のニーズにちゃんと答えるという布教方針は中々うまいと感じました。例えば、下はペットのための仏像。しかも犬用と猫用に分けて、左右にそれぞれの仏を従えているのだからぬかりはありません。

また、下は、ぼけ封じ観音。う~ん、これもうまい!もし、この観音像の力でボケが封じられるのならば、自分でもお賽銭を入れたくなってしまったくらい。

そして、広場の中央に鎮座しますのは、高さは6mはあろうと思われる黄金の大観音像です。これだけの大きさですから、この仏の里のどの位置からも見ることが出来て、正にこの仏の里の支配者たる貫禄十分の像です。でも、いくらなんでも竜と一緒の観音像というのはちょっとなぁ...。

台座の横には成田山大分別院など書いてある札が掛けてあって如何にも千葉の成田山と関係がありそうなことを装っているにも拘らず、胡散臭さが一目瞭然な竜と一緒の像にしてしまうのかがまるでわからん...。あまりに人を騙すようなフェイクな像ばかりだと気がとがめて偽者であることが丸分かりになる竜を良心として入れて見たのか、はたまた観音の女性的な穏やかさには竜の荒々しさが似合うと像の製作者の芸術魂が炸裂してつい竜を加えてしまったのか...
まぁ、そんなことを考えてもしょうがないし、こういうのを馬鹿にするような趣味も持っていませんから、何だかこのようなフェイク仏像を見ているうちに、段々と気分が落ち込んできてしまいました。しかも、まだ時間は午後3時でさんさんと日光が照っており、このまま何もせずに宿に向かうのは、負けたまま一日が終わるような気がしてきて、どうしようかと悩みましたが、もう開き直ってここへ来る前に却下した黒川温泉へ行って見ることにしました。そうと決まれば、時間が無いので躊躇せずにGo!だ。
この後、黒川温泉へ出かけるのですが、また、例によって長くなってきてしまっているので、それは次回Upすることにします。
以下は、稲積鍾乳洞から黒川温泉へ行く途中の阿蘇山の光景。



悠久な時の流れを感じさせる雄大な自然の大パノラマ光景でした。
さて、冬休みに行った九州旅行の話を、流石に2ヶ月以上引っ張りたくないので、とにかくUpdateを頑張らなければ!
...と言いながら、相変わらず土曜日はぐったりして、日曜日はガルパン劇場版4DXを見に豊川というかなり遠いところまで出かけて(豊川を豊田だと直前まで勘違いしていて、えらい目にあいました)さらにぐったりしてしまい、自分のノルマにしていた最低週1回Updateの目標をあっさり破ってしまったのが情けない...って、確かガルパンがらみのこのパターンはつい3週間前にもあったような気が。う~ん...。
まぁ、過ぎたことは仕方がないので、気を取り直して今回は、阿蘇周辺の史跡めぐりということで、大分県竹田市にある岡城址、そして熊本県阿蘇市にある阿蘇神社への訪問を書いて見ます。
1.岡城訪問(大分県竹田市大字竹田)
熊本から別府方面へ抜ける国道57号線を東に向かって進み、阿蘇山の南側をかすめ更に東へ20km程進むと、山間の静かな城下町竹田市に到着します。岡城は竹田市の東方にある天神山の山頂に築かれ、大野川の支流である稲葉川を北に、白滝川を南に配する自然の濠を持った堅城で"日本三険城の最上"などと紹介されることもある城です(但し、この日本三険城のうち他の2城は確定しておらず、岡城の難攻不落さをあらわす一種の形容詞的なもののようです)。
1)岡城の歴史
岡城の始まりは、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって古くからあった山城が拡張され、岡城と名付けられたと言われています。
この岡城を一躍有名にしたのが、天正14年(1586年)、薩摩の島津氏が九州全域を配下に置こうと豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し最後まで落城しなかったことで(一説によると、三万七千の薩摩軍をわずか千名の兵で撃退したとも言われていますが、それは流石に誇張なのでしょう)、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けています。これが、岡城を"日本三険城の最上"と言わしめる故事となっています。
しかし、豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなってしまいました。そして翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施し二の丸・三の丸を整備しました。 その後中川氏はこの地を動くことなく、明治をむかえました。
2)岡城訪問
国道57号線を竹田市街手前で分岐し、国道502号線で岡城の南側から岡城駐車場を目指します。やがて左手側に本丸石垣が見えてくると胸が高鳴ります。ちょうどその時車が路面の細かい凹凸を拾って音を出し始めるので驚きましたが、その音をよく聞いて見るとそれは雑音ではなくメロディになっていて、昔、小学校で習った滝廉太郎の"荒城の月"であることに気が付きました。
実は、荒城の月に出てくる古城は、この岡城のことで、作曲者の滝廉太郎は、竹田市出身の人なのです。それゆえ、岡城近くの道路には、このようなちょっとした仕掛けが仕込んであるのです。
さて、岡城前の駐車場について見ると、真正面には西の丸の石垣が聳えているのが見えていやがおうにも古城探訪への気持ちが高ぶります。

ここの入場券販売所で入場券の支払いと案内書をもらえるはずなのですが、さっき駐車場の入り口に年末年始無料の旗が立っていたのでイヤな予感がしていたところ、案の定販売所は年末のお休みで100名城スタンプも押せないと言うことになりガックリ...
福岡城に次ぐ2回目のスタンプ押せないトラブルなのですが、本当にもし、ちゃんと観光のことを考えているのなら、休みの間、駅の構内もしくは観光課などに100名城スタンプを預けることを真剣に考えてください。実は、100名城の中には、入場料を払わないお城も含まれていて、そういうお城では城内のちょっとした休憩所に盗難防止用に鎖で縛る等の工夫をして、タンプが用意されたりしているので、岡城や福岡城も同じ工夫が出来ると思うのです。是非、来城した人をがっかりさせない工夫を考えて欲しいと思っています。
さて、落ち込んでばかりいてもしょうがないので、駐車場から大手門のほうへ歩いていきました。

大手門の入り口が見えて来ました。すごい石垣だなぁ。

登城道をどんどん登っていきます。


やっと大手門石垣が見えて来ました。この大手門石垣だけみると西洋のお城みたいですね。また、登城道の崖側の壁の上部は丸くかまぼこ状なっており、これも沖縄風の異国情緒が漂う造りになっています。

城内側から見た先ほどの大手門。
さて、城内に入り右手側へ行くと本丸へ、左手側に進むと西の丸へ行きますが、まずは西の丸から巡ってみます。
以下の俯瞰図から見ると、図面左下の大手門から左方向へ西の丸へ歩いていくことになります。
(この俯瞰図は、いつものように余湖様のホームページから転載させて頂きました。)


西の丸。

西の丸の石垣。駐車場から見上げた石垣はここになります。

西の丸から本丸方向へ進んでみます。

三の丸手前の櫓門(西中仕切り門)前。

ここから見る三の丸及び二の丸北側の石垣が、城郭の本にもよく掲載されるアングルの写真です。本当に素晴らしい高石垣ですね。

西中仕切り門を抜けると直ぐ三の丸櫓門(太鼓櫓門)が見えます。

この三の丸櫓門を抜けると、左手側が二の丸、そして正面に本丸の石垣が見えて来ました。この主要部である三の丸、二の丸、そして本丸はとても狭く密集しています。

二の丸へ入る脇から本丸への階段を上っていきます。


本丸到着。本丸は、長手方向が50m程の角形で、本丸の南西端に本丸から見ると殆ど高さの無い天守台があります。ここにはかつて三層天守が存在し、他に二重櫓、御金倉などが建っていました。下は、かつての岡城の古写真です。


本丸を西に進んでいくと天満神社の社が見えました。

小さなお社ですが、御祭神が菅原道真公で、かつ岡城は落城しない城=落ちないということで、結構受験生に人気がある神社とのことです。みんなこういうことを良く思いつきますね!
さて本丸を降りると、本丸北側の二の丸の方へ廻ってみます。二の丸の一角には滝廉太郎の像が建っていて、背後の山並みとのコントラストが美しく、絶好の像を背後にした撮影スポットと言う感じでした。

下は、先ほど見た二の丸から見た三の丸の石垣です。先ほど西中仕切り門前から見た石垣を、逆側から見ることになりますが、相変わらずこの石垣は素晴らしいですね。

そして、二の丸側から見た家老屋敷側の石垣。今度はあちらへ行くことを目指します。

三の丸を出ると西の丸の北側を通って家老屋敷側へ歩いていきます。


家老覚左衛門屋敷の跡。ここでは面白いことに屋敷の床の平面だけがが復元されていました。
これは中々面白い試みではないでしょうか。

家老屋敷側から、本丸側を望みます。

その他の家老屋敷側へ移動してみます。


西の丸北側の家老屋敷跡。


家老屋敷西側の搦手門の石垣。

その後、西の丸を南側から眺めながら大手門へ戻り、その後駐車場へ向かいました。

今回は、これにて岡城を後にしましたが、スタンプを押せなかったのでもう一度ここに来なければなりません。
まぁ、何度も訪れたくなる名城だし、竹田市街も巡って見たお所があるので、再訪するのはいいのですが、簡単に来れる場所ではありませんので、後回しにはなるでしょうね。参ったなぁ...
最後に、豊後竹田駅に寄って落門の滝と言うのを見てみました。実は、豊後竹田駅は、日本でも珍しい滝の近くにある駅なのです。


そのほか、竹田市には世界でも類を見ない炭酸濃度の高さを持った長湯温泉という温泉があり、そこには是非行って見たいですね。武家屋敷が残る古い街並みもあるので、次回に竹田に来るときは、じっくりと時間を取って来てみたいですね。
2.阿蘇神社訪問(熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1)
今回の九州旅行では、阿蘇神社へ初詣に行ってきました。今頃初詣のネタなんて本当に遅すぎ...
1)阿蘇神社の社史
阿蘇神社は、紀元前282年、第七代、孝霊天皇のころ、燃え盛る阿蘇山の開拓の為に使わされた「健磐龍命(タケイワタツノミコト)」(神武天皇の孫にあたる)を主神として、お妃の阿蘇都媛命(アソツヒメノミコト)阿蘇初代国造の国造速瓶玉命(クニノミヤツコハヤミカタマノミコト)を含む十二神を奉ったことが始まりとされています。阿蘇神社としての創建は第12代景行天皇が国造速瓶玉命の子である惟人に命じて創建させたと伝えられます。
阿蘇山火口にあります阿蘇山上神社が上宮で、一の宮町にあります阿蘇神社は下宮とされますが、噴煙で怒り狂う阿蘇山をおろがみて、鎮めの為の祭祀を行う場所でもありました。
この一ノ宮にある阿蘇神社は、全国に約450社ある阿蘇神社の総本社であり、古代からの有力氏族である阿蘇氏が現在も大宮司を務めています。現在の大宮司は、阿蘇家の91代目が務めています。
2)祭神
以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称されています。
一の神殿(左手、いずれも男神)
一宮:健磐龍命 - 初代神武天皇の孫という。
三宮:國龍神 - 二宮の父で、神武天皇の子という。
五宮:彦御子神 - 一宮の孫。
七宮:新彦神 - 三宮の子。
九宮:若彦神 - 七宮の子。
二の神殿(右手、いずれも女神)
二宮:阿蘇都比咩命 - 一宮の妃。
四宮:比咩御子神 - 三宮の妃。
六宮:若比咩神 - 五宮の妃。
八宮:新比咩神 - 七宮の娘。
十宮:彌比咩神 - 七宮の妃。
諸神殿(最奥、いずれも男神)
十一宮:國造速瓶玉神 - 一宮の子。阿蘇国造の祖という。
十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。第2代綏靖天皇を指すという。
3)阿蘇神社への初詣
阿蘇山の南、国道57号線沿いに阿蘇神社はあります。車を臨時駐車場へ置くと、表参道のほうへ歩いていきます。

北鳥居を潜ると表参道を歩いていきます。実は、阿蘇神社は全国でも珍しい横参道で、正面遠方には反対側の南鳥居が見えました。この横参道を左手側に阿蘇神社を見ながら進んで行くと、右側に下写真のような手水舎が見えて来ました。


この手水舎は「神の泉」と呼ばれていて、その横に伸ばされた青竹から水がとうとうと流れていました。「神の泉の由来」という説明書きには「一の宮町はむかしより地下水の噴出する[清泉の町]として知られております。とくにこの神域に湧き出ずる水は美味芳醇な神の泉として珍重され、不良長寿の水として多くの人々に飲用されています。」と書かれていました。
この手水舎で手を清めた後、背後を向くと、そこが阿蘇神社の正面でその入り口に大きな楼門があります。

この楼門は仏教的な要素を取り入れた二層楼山門式と呼ばれる様式で造られ、高さは何と21mもある巨大なものです。この様な建築様式の楼門は他の神社に例が無く、その希少性から日本三大楼門の一つとされています(その他は茨城県の鹿島神社、福岡県の箱崎宮の楼門が日本三大楼門と呼ばれています)。

また、そこに掲げられる「阿蘇神社」と書かれた額は、明治維新で活躍された有栖川熾仁親王による御染筆とのことです。
この楼門を潜ると、正面にある拝殿と対面することになります。この拝殿の奥に、一の神殿、二の神殿そして諸神殿が鎮座されていますが直接拝することは出来ず、正面の拝殿の向かって左側の一の神殿の拝所及び右側に二の神殿の拝所から拝することになります。

拝殿での参拝を済ますと、年初めのおみくじを引いて見ます。自分は初詣で引いたおみくじをその年の運勢としてきているので、毎年気合をこめて初詣のおみくじを引いています。

さて、今年の運勢は...何と大吉でした!今まで、初詣のおみくじで大吉を引いたことは無かったので、今年は期待できるというより、頑張ってこのおみくじの通りにしたいですね!
さて、この阿蘇神社の境内には、拝殿へ参拝する以外に以下のような面白い言い伝えのようなものがあります。
高砂の松(えんむすびの松)
この松のまわりを女性は右回り、男性は左回りに2回まわると良縁に恵まれると伝えられています。
これには以下のような縁起があるとのことです。
”上京途中の神主友成(阿蘇神社宮司)が名所高砂の浦に立ち寄ると、媼が浜の松葉を掻き清めています。そこで離れたところに生えている高砂の松と住吉の松が相生の松といわれる由緒を尋ねると、山川を隔てるとも夫婦の愛は通いあうものと答え、自分は相生の松の精であると告げ、住吉で待つと舟に乗って去ります。
友成も住吉に至ると、住吉明神が現れ、御代を祝って舞う姿を拝することができた。”

自分が初詣に行った日にも、若い女性の方が数人連れ立って回っていました。こういうのは女性の方がやっているのは微笑ましく感じますが、男がやっているのは...あまり見たくないなぁ。これは差別じゃありませんよ?
願かけ石
阿蘇大明神(建磐龍命)がもろもろの願いを込めて拝まれた「霊場の岩石」のひとつで、古くから神石として伝わってきたありがたい石とのこと。
作法は、「まず心に願い事を念じ、この神石を3度撫で、さらに願い事を唱えるとよい」とされています。
高砂の松の印象が強すぎて写真撮るのを忘れました。一応上記写真で、高砂の松の左奥に写っています。

その後、甘酒を飲んで阿蘇神社を後にしました。
3.稲積水中鍾乳洞
岡城、阿蘇神社と行った後、ちょっと時間が余ってしまってどうしようかと思っていたところ、前日宿泊した阿蘇羅というゲストハウスの宿泊客の方から、水中鍾乳洞というのがあるので行ってみてはどうかと言われたのを思い出しました。ただ、その方自身も行ってみたことは無いとのことで、お勧めすることはできないけれどとも言っていた場所なので、どうしようかと悩みましたが、もうひとつの候補の黒川温泉はここからかなり遠いので、この稲積水中鍾乳洞へ行ってみることにしました。(今考えれば、この時、黒川温泉もしくは長湯温泉に行っておくべきだった...)
稲積鍾乳洞は、岡城の前を通る国道502号線を岡城からさらに東へ一時間ほど行き、そこから県道45号で南へ少し入ったところにあります。
駐車場に車を停車し、券売所の方へ歩いていくと、そこは思ったよりも大きな建物で、どうもここは鍾乳洞の見学だけではなく、いろいろなテーマパークの合体施設のような所でした(実際、鍾乳洞以外の施設の印象の方が強烈でした)。

何となく、田舎の秘宝館のような胡散臭い雰囲気が思いっきり漂っていましたが気にしないことにしてLet's go!です。だって、もう到着してしまったのだから仕方がない。それでは、入場券を買って鍾乳洞へいざ出発!

鍾乳洞入口前。ここの雰囲気は中々よかったです。


最初は新生洞のほうへ行ってみます。

新生洞の最深部。この派手なライティングは意外と鍾乳洞の雰囲気と合っていて良かったです。

こちらは水中洞側の最深部。水の青さが印象的でした。


鍾乳洞の中は、思ったより広く、そして思ったよりよく整備されていました。ただ、残念なことに典型的な鍾乳石といったものがあまりなく鍾乳洞としての迫力に欠けるといいますか、ありていに言えば単なる洞窟っぽい感じがしてしまうところがイマイチでしたね。
ただ、それは山口県の秋吉台や、岩手県宮古の龍泉洞などに比べればちょっと見劣りするというくらいで、全くダメとかいう意味ではありませんので念のため。
さて、鍾乳洞から出てくると、出口はそのまま昭和タイムトリップ館に繋がっています。
このタイムトリップ館は無料で拝観できますが、こちらは意外と凄かったです。下はこの博物館の入口です。
かなり多くの人は入口に書かれている文字をストリップと読み違えるハズ...

もちろんこれは、タイムトリップと書いてあります。



料金は無料とのことなので、個人的なコレクションをただ展示しているだけということなのでしょうが、量もすごいし展示の仕方も、昭和の店先を再現するという凝り方で、しかもその再現率がかなり高いのです。いや、これは中々大したものです!


うわ、これはもの凄く懐かしい。この当時宇宙戦艦ヤマトにハマっていた自分は、この戦艦大和の巨大プラモデルが欲しくて、おもちゃ屋に行ってはよく眺めていましたっけ。しかし、本当に昔は、こんなプラモデルしか無かったんだよなぁ。


最後に、この昭和タイムトリップ館を出ると、なんと出口は昔の映画館の形をしています。凝ってるなぁ~。

この昭和タイムトリップ館を出ると、そこは仏の里とかいう庭園になっていて、まぁ何というか本当に胡散臭かったです。庭園のあちこちに仏像(というかちゃんとした仏教に基づく仏像には見えないのいので創作仏像というべきもの?)が置いてあって、それはどんな形の仏像でも自分は全く構わないのですが、その全ての創作仏像の前に浄財と書かれた箱が置かれているのがちょっとなぁ...。これ、例えば誰かが間違ってこの箱の中に賽銭のつもりでお金を入れてしまったら、この庭園の管理者はその金をどうするつもりなのでしょうか。もし、この庭園の管理者が、賽銭箱のつもりでこれらの像の前に浄財と書かれた箱を置いたならば、そこに入っていたお金は宗教活動のために使われなくてはなりません。でも、これらの像が正統派の仏像には見えないので、ちゃんとした宗教活動に使われるようにはちょっと思えないのですよね。まぁ、実は、この仏の里が、新手の宗教法人に管理されていて、これらの仏像は全て、その新興宗教に属しているということなのであれば、入れられたお賽銭はこの庭園の管理に使われると言うことで筋は通るとは思いますけれども。でも、それならばちゃんと、その新興宗教名を明示して、こんな見ようによっては既存の仏教にも見えるようなあやふやな展示の仕方をせず、既存宗教とは別であることをはっきりさせてもらいたかったですね。
でも、もし本当に、これらの創作仏像が新興宗教のものであるならば、最近のニーズにちゃんと答えるという布教方針は中々うまいと感じました。例えば、下はペットのための仏像。しかも犬用と猫用に分けて、左右にそれぞれの仏を従えているのだからぬかりはありません。

また、下は、ぼけ封じ観音。う~ん、これもうまい!もし、この観音像の力でボケが封じられるのならば、自分でもお賽銭を入れたくなってしまったくらい。

そして、広場の中央に鎮座しますのは、高さは6mはあろうと思われる黄金の大観音像です。これだけの大きさですから、この仏の里のどの位置からも見ることが出来て、正にこの仏の里の支配者たる貫禄十分の像です。でも、いくらなんでも竜と一緒の観音像というのはちょっとなぁ...。

台座の横には成田山大分別院など書いてある札が掛けてあって如何にも千葉の成田山と関係がありそうなことを装っているにも拘らず、胡散臭さが一目瞭然な竜と一緒の像にしてしまうのかがまるでわからん...。あまりに人を騙すようなフェイクな像ばかりだと気がとがめて偽者であることが丸分かりになる竜を良心として入れて見たのか、はたまた観音の女性的な穏やかさには竜の荒々しさが似合うと像の製作者の芸術魂が炸裂してつい竜を加えてしまったのか...
まぁ、そんなことを考えてもしょうがないし、こういうのを馬鹿にするような趣味も持っていませんから、何だかこのようなフェイク仏像を見ているうちに、段々と気分が落ち込んできてしまいました。しかも、まだ時間は午後3時でさんさんと日光が照っており、このまま何もせずに宿に向かうのは、負けたまま一日が終わるような気がしてきて、どうしようかと悩みましたが、もう開き直ってここへ来る前に却下した黒川温泉へ行って見ることにしました。そうと決まれば、時間が無いので躊躇せずにGo!だ。
この後、黒川温泉へ出かけるのですが、また、例によって長くなってきてしまっているので、それは次回Upすることにします。
以下は、稲積鍾乳洞から黒川温泉へ行く途中の阿蘇山の光景。



悠久な時の流れを感じさせる雄大な自然の大パノラマ光景でした。
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