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英語の勉強とアニメの感想や日々気になることの日記

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大野城・太宰府天満宮訪問

新装置上での生産も何とか無事に終わって一安心したのですが、生産中に出たトラブル解決のために、本日土曜日も出勤し、現時点ですでに来週の土曜日出勤が確定しています。何だか全然休めないなぁ...。でも恐らく3月からは逆に思いっきり暇になりそうで、ちょっと極端すぎますね。それはともかく、明日の日曜日で何とか記事をUpせねば!...と土曜日の時点では思っていたのですが、日曜の午前中は爆睡して起きれず、午後からは、ダブル生コマフィルム配布という来場特典に目が眩んで4回目のガルパン劇場版を見に行ってしまい、そのせいでブログのUpも遅れてしまうというダメっぷり。全く何やってんだか...。

九州旅行3日目は、福岡県大宰府近郊にある大野城と太宰府天満宮へ行って来ました。大野城は福岡県太宰府市に隣接する大野城市にあるのですが、市名をこの大野城からとっているため、カーナビで大野城を検索すると色々な箇所にヒットして、最初は全く別の場所に案内されてしまい参りました。その後何とか大野城跡に辿り着いたのですが、この日は朝から雨が降り続いていて、計画していた大野城全周を徒歩でぐるりと歩いて周ることは結局断念する羽目になってしまい、何だかこの日は色々残念でしたね。

1.大野城訪問(福岡県大野城市宇美町)
1)大野城の歴史
斉明天皇6年(西暦660)、朝鮮半島では日本の友好国百済(くだら)が唐(とう)・新羅(しらぎ)連合軍によって滅ぼされました。日本は百済を救うために大軍を派遣しましたが、天智天皇2年(663)、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗し、日本軍は撤退しました。
 
以後、唐・新羅の侵攻に備えて、大和朝廷は国防体制の充実を急ぎ、まず、北九州沿岸に防人(さきもり)を配備して海岸線の守備を強化しました。次に大和朝廷は、当時、大陸との玄関口という役割を担っていた地方行政機関であった太宰府を防衛するために、天智天皇3年(664)水城(みずき)を築き、翌年の天智天皇4年(665)には、亡命百済貴族の憶礼福留(おくらいふくら)、四比福夫(しいふくぷ)に命じて大野城を築かせました。それゆえ、この城は当時の朝鮮山城の技術を使って作られており、朝鮮式山城とも呼ばれています。

2)大野城の構造
大宰府政庁の北側に位置する四王寺山は中心部が盆地のようにくぼんでおり、その周囲をぐるりと取り囲むように尾根が走るという、いわばすり鉢状の地形を成しています。大野城はその環状の尾根に沿って土塁を巡らして城壁とし、その土塁の内側に建物を配置するという構成を取っています。この四王寺山を取り囲む土塁は極めて長大で、その長さはおよそ6.5キロメートルになり、二重に築かれた部分も含めると土塁の総延長は8キロメートル以上にも及びます。大野城に設けられた城門ははっきり確認されているだけで四ヶ所。南側の土塁には大宰府口、坂本口、水城口の門が、北側の土塁には宇美口が設けられました。
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・大野城の土塁
大野城の土塁は、7世紀後半に中国よりつたわった技術である「版築」工法でつくられました。この版築工法というものは、丸太材と板材をくみあわせて外枠を作り、その中に性質の異なる土(粘性土と砂質土)を広げ、固くつきかためながら一層ずつ盛り上げ、最後に木材を外して土の壁とする方法です。この工法で築かれた積み土は大変安定していて、大野城や水城跡の土塁は1300年以上も保たれているのですから、当時の中国の技術水準はすごく高かったのでしょうね。
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上は、版築工法の模型。性質の違う層を積み重ねて作られているのがわかります。これは、現代の池築堤方法と全く同じとのことです。

・大野城の石垣
大野城の土塁は尾根に沿って築かれていますが、中には尾根を分断するような谷間もあります。そのような所では土塁の代わりに石垣が積み上げられました。大野城では、大石垣、水の手石垣、百間石垣、北石垣、小石垣の計五ヶ所に石垣が築かれましたが、その中で最も有名なのは、百間石垣と呼ばれる石垣です。大野城の北口にあたる宇美口に築かれたこの百間石垣は、全長が約150メートルと大野城の石垣の中で最も規模が大きいもので、石垣の内部には栗石を詰めて水はけを良くし、また石垣の下には地下水を逃がす吐水口も設けられていました。
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上写真は、百間石垣に設けられた吐水口。水に配慮した当時の大陸の高い技術水準を窺い知ることができます。

3)大野城訪問
途中、ナビが付いているにも関わらず道に迷うというトラブルがありましたが、何とか大野城前の駐車場に到着しました。場所は、大野城全体図から見ると、大宰府城門付近になります。大野城の土塁跡はピクニックコースにもなっていますから、ここから反時計回りに歩いて大野城を巡ろうとしていたのですが、生憎の雨天でそれは中々難しそうでした。参ったなぁ...

とりあえず、気を取り直して、傘を差しながら土塁のほうへ向かいました。
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すると、上写真のような素晴らしい光景が目の前に広がりました。この土塁が1300年も前に作られたなどちょっと信じられませんね。
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しかし、更に歩いていくと、益々雨脚が激しくなり濃い霧もかかってきたので、今回は残念ながら大野城を歩いて一周するのを諦めました。次回はリベンジで、是非、大野城を徒歩で巡ることで堪能したいですね。

先に進むのを諦めて、駐車場まで戻ると、今度は大野城の土塁を少し右回りして、大宰府城門の方へいって見ました。
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案内の札に従って土塁を下っていくと大宰府口城門跡が見えてきました。でかい!
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城門跡の裏側の石垣。写真ではサイズ感が伝わりにくいのですが、想像以上の大きさでした。
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大野城についての全体の印象は、とにかく全てが巨大であるということです。土塁もこの城門もそうですが、とても、地方豪族が作れるような大きさの城ではなく、そうとう数の人夫を動員して国家的規模で造成された城であることが実感出来ます。

次は、車で百間石垣まで移動します。大宰府口城門付近の駐車場から車で5分ほど移動すると左手側に百間石垣が見えてきます。

このアングルから見た百間石垣は、よく大野城の紹介で使われる写真に示される百間石垣と同じですね。そうか、実際はこんな感じなのか。
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車から降りて、石垣に近づいていくと、百間石垣の前には小さな小川が流れているのが見えました。
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更に石垣に近づいて見ます。
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左翼の石垣。積み方は確かに荒いですが、1300年間崩れないでそのまま残っているのは凄いことだと思います。
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先程も紹介した石垣の下の吐水口。

今度は石垣前の小川を下流側に沿って歩いて行くと、きつい傾斜を上っていく小さな階段があり、その上にも石垣が見えました。これはすごい。
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もちろん、迷わず上っていきます。
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そして、やっと石垣の下に到着。本当にすごいところに石垣を作るなぁ。
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石垣に沿って歩いてみます。
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石垣の間からホースの様なものが突き出して排水していますが、ホースの上に積んでいるのは石垣ではなく土嚢で、一時的な補修をしているようです。

この石垣から下を見てみます。
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本当にこんな高いところによくこのような石垣を築いたものです。

さて、大野城を離れる前に大野城駐車場の近くにある福岡県立四王寺県民の森管理事務所で100名城スタンプを押したかったのですが、そこへ行って見ると、またもや年末のため休館であることがわかりました。もはや万事休す...かと思いきや、よく見ると張り紙がしてあって、100名城スタンプは、大宰府駅内の観光課で押すことが出来るとのこと。いや~、実に嬉しい気配りですね!福岡城でもこういう気配りをお願いしたいものです。
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早速、大宰府駅へ行って、スタンプをGetして来ました。九州上陸後初スタンプです!

2.水城(みずき)訪問(福岡県太宰府市・大野城市・春日市)
水城(みずき)は、664年(天智3年)に、大和朝廷の地方行政機関である大宰府を守るために作られた土塁です。大宰府は九州を統べる行政機関としての役割のみならず、大陸の玄関口として海外交易や防衛の拠点という非常に重要な役目も担っていましたが、それは同時に大陸からの脅威にさらされやすい場所にあるとということも意味しました。そのような大宰府を大陸の脅威から守る城壁として作られた水城の大土塁は、基壇の幅約幅80メートル、土塁本堤の高さが約13メートルであり、その全長はなんと1.2キロメートルにも及ぶ極めて巨大なものでした。

1)水城の歴史
7世紀中頃の朝鮮半島では百済(くだら)・新羅(しらぎ)・高句麗(こうくり)の三国が抗争を繰り返していました。また、中国を統一した唐(とう)は朝鮮半島にまで支配の手を延ばそうとしてる状況にありました。
660年、唐は新羅と手を結び、百済に攻め入りました。同年7月、百済王は捕らえられ百済は滅び、百済の遺臣は倭に百済の滅亡を伝えるとともに、救援軍の派遣を要請してきました。

それに応えた大和朝廷は、百済への2回の派兵を行いました。1回目の派兵は661年に行われましたが、大きな戦果は得られませんでした。しかし、663年に行われた派兵は、2万7千人から成る大部隊で、兵士の動員は西日本だけでなく、東日本にも及び、国家的な戦時体制が敷かれました。

第2回の百済救援軍は8月、錦江(きんこう)河口の白村江で、唐・新羅の連合軍と衝突します。戦闘は4度にわたり繰り返され、この戦いで倭の水軍は大敗北をしてしまいました。これが白村江の戦いです。倭の軍は百済の亡命貴族を伴い退却しました。
この敗戦を受け唐が攻め込んでくるのではないかと危惧した大和朝廷は、まず最初に狙われるであろう大宰府を守ろうと、博多平野から大宰府へと入るその入口の平野部に長城のような巨大土塁を築くことにしました。その作業は大急ぎで進められ、翌664年に水城は完成し、さらにその翌年の665年には大宰府背後の四王寺山に大野城が、大宰府南西の基山に基肄城が築かれて、大宰府の守りは徹底的に固められました。
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上図を見ると、水城と大野城が大宰府政庁への守りであることが良く分かります。

しかし、これほどの規模を持つ水城や大野城が整えられながらも、結果的に唐が攻め込んでくることはありませんでした。白村江の戦いが終わった当時まだ、高句麗は健在で、唐にも新羅にも対高句麗の方が重要で、日本に攻め入る余力は無かったからでした。

2)水城の構造
水城の大土塁は当時の最先端土木技術をもって作られました。まず土塁を築く前の基礎工事では、敷粗朶(しきそだ)という工法により緩い地盤を強化しています。これは地面に樹木の枝や葉を敷き詰めるというもので、地盤沈下や地すべりを防ぐために施された工法です。次に基盤の上に築かれた土塁ですが、これは木の枠に土を詰めて棒で突き固め、それを何層にも重ねて高くする版築(はんちく)工法によって築かれました。版築は大陸から伝わった土壁の造成技術であり、非常に高い強度を持つ大変優れた技術でした。翌年築城された大野城も同じ工法を使って建てられました。

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『日本書記』には、「大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城といふ。」と記されています。それを裏付けるように、発掘調査により濠と木樋が発見されました。
この水濠は敵の侵入を防ぐためのもので、その深さは4メートル、幅は60メートルであり、水は大宰府から水城を経て福岡湾に流れる御笠川から引かれていました。川の水は一旦土塁の内側(大宰府側)に溜められた後、土塁の下に埋め込まれた木樋(もくひ)と呼ばれる導水管を通って濠に供給される仕組みでした。
このように、水城の大土塁は当時最先端である非常に高度な土木技術で作られたもので、現在でも土塁はその姿を留めています。
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上は水城の航空写真です。現在も崩れずその姿を保っているということが本当に凄いですね。

3)水城訪問
以下は、水城を訪れた時に撮った写真です。この後、阿蘇のゲストハウスのチェックイン時間に間に合うために、ここではあまり滞在時間を長く取ることが出来ませでした。

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水城の東門礎石跡。上写真では見にくいのですが、写真下のほうに門柱をはめ込んだ穴のある礎石が見えます。

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展望台から見た水城の土塁。1300年以上前に作られた土塁がはっきりとした形で残っています。

4)白村江の戦いの謎
今を遡ること1300年以上前に、日本は第二次世界大戦以外で他国に大敗北を喫したことがありました。それが、白村江の戦いです。
この白村江の戦いは、先に水城の歴史の中で書いた通りですが、ここでは、もう少し詳しくこの戦いに至る歴史的経経緯を見て見ることにします。

白村江の戦いが起きる前の朝鮮半島では、百済・新羅・高句麗の三国が抗争を繰り返していましたが、新羅は唐と結び、白村江の戦いの3年前、660年3月、唐の高宗は水陸13万の大軍をもって百済を襲い、新羅の武烈王も5万の兵を百済に進攻させました。これにより百済の義慈王は降服し、百済は一度滅びました。

その後、唐が主力を高句麗に転じた間隙に、百済の遺臣鬼室福信は倭に使者を派遣。援軍の派遣と人質として倭にいた百済の王子・餘豊璋の送還を要請しました。斉明天皇は詔して救援の決意を使者に伝え、661年1月斉明天皇は難波を出発し筑紫へ向かいました。しかし7月に、天皇は朝倉宮にて崩じてしまいます。その後、中大兄皇子が称制することになり、8月には救援軍を編成して豊璋を百済に送還し、4662年豊璋は百済王として即位しましました。このことによって百済復興の軍は大いに勢いづきました。

しかしその後、大和朝廷が百済への援軍として送った2万7千の兵からなる大船団は、663年8月白村江で唐の水軍と激突し、壊滅する程の大敗北を喫しました。日本書紀は、「官軍やぶれぬ。水に赴きて溺れ死ぬ者おおし。舳艫めぐらすことを得ず。(たちまちに敗れ、水に落ちて死ぬ者が相次いだ。船の舳先を廻らすこともできなかった。)」と伝えています。旧唐書には、「仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙焔漲天,海水皆赤,賊大潰。(旧唐書列傳第三十四劉仁軌)」船400隻を焼き、炎は天を覆い、海は血に染まったとされています。
この敗戦の中、豊璋は高句麗へ亡命し、百済の遺民達は9月24日弖礼城(てれさし)に集合し、翌25日に船で日本に向かったと日本書紀は記しています。
            白村江の戦い

この大敗北で、唐の日本侵攻を恐れた大和朝廷は、大急ぎで守備固めを進め、664年に対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり-東日本出身の兵隊)や通信手段としての「烽(とぶひ)」を置き、水城を造成、そして翌665年に大野城を築くことになります。

ただ、この白村江の戦いには不思議なことがあります。それは、この白村江の戦いが行われたときには、実は既に百済は滅びており、如何に友好関係にあった百済のためとは言え、いったんは亡んだ国の再興のために、大国唐と隆盛期にある新羅との連合軍を相手に、下手をすれば亡国の憂き目に遭いかねないような救援軍の派遣を大和朝廷は何故決めたのかということです。

これには、諸説あるようですが、Net上で以下の説明を見つけましたので、それを紹介したいと思います。

1)理由その1
百済と日本は、4世紀頃から続く友好国の関係にあった。日本書紀には、『475年高句麗によって滅ぼされた百済は、477年に雄略天皇が百済王に熊津の地を賜って再興させた』との記述もあり、天皇家とは強い繋がりがあったことも伺える。また、414年に建てられた有名な広開土王碑の碑文に、”399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした”との記述があり、古代日本が朝鮮半島に影響力を持っていたことがわかる(韓国はそれを認めたがらず、最近まで碑文は日本の陸軍が改竄したと主張していたが、調査の結果碑文の改竄はなかったことが判明した)。
そして、白村江の戦いの前には、百済王子・扶余豊璋が日本に(人質として)滞在中で、これは準皇族扱いを受けており、儀式にも出席していた。日本は百済王子が朝廷に仕えることで、“東アジアの雄”としての面目を保てる訳で、扶余豊璋には丁重に接した。そんな百済が滅びたとなれば、当然ながら友好国として百済再興に力を貸そう意識が働いたことも考えられる。また、当時百済からの渡来人を祖先を持つ貴族も大和朝廷の中にいてその力が働いた可能性もある(この部分は推測)。これらの感情面が百済再興の戦をすることを決定させた一因と考えることが出来る。

2)理由その2
感情面は別にしても、政治的・軍事的に考えて、百済滅亡は日本の危機を呼び起こす可能性があった。
日本の国益を考えた場合、朝鮮半島に統一国家が成立するよりも、分裂した状態で、かつ唐や他の勢力との緩衝帯として日本との間に存在していることの方が、日本にとって都合が良かった。(実際に、朝鮮が新羅に統一された後、日本は「新羅の賊」から度々侵略を受けることになったし、鎌倉時代には元の支配下になると日本は武力侵攻を受けている。李氏朝鮮は対馬占領軍を送り込んだこともあった。)
また、日本は4世紀には朝鮮半島に軍を派遣していましたが、朝鮮諸国が国家として整備されるに従い、任那を喪失すると言う苦い経験をすでにしていた。よって、日本としては友好的な百済が朝鮮半島に存在させる事で自国の安全を確保しようとした。

3)理由その3
軍事的に見て、百済復興は意外と上手くいく可能性があった。
白村江の戦いの前に、百済の大臣・鬼室福信が旧百済で唐・新羅連合軍に叛乱し、これが有利に展開していたという状況があった。実際に百済が復活しつつあるならば、ここに日本軍を投入すれば、勝率は高まることが考えられた。もし、百済が復活したならば、次の百済王は日本滞在が長い扶余豊璋となるので、日本は新生百済に強い影響力を持つことができると考えられた。

この白村江の戦いは、結果から見れば負けてしまいましたが、状況や軍勢の数から見て勝利する可能性はありましたので決して無謀な戦いではありませんでした。大和朝廷は、この戦に負けましたが大きく揺らぐことは無く、信頼と威信は保ちえました。
そして、唐との戦いで敗れた倭国は、天武天皇の時代になって「日本」と呼ぶようになり、政治の方針を大きく変えていきます。日本は唐の優れた政治制度を学び、律令国家を目指しました。また、母国を失った百済の遺民は、日本に安住の地を得て、その結果、彼等は多くの文化を伝えると共に、「日本書紀」の編纂にも深く関わり、多くの歴史を後世に伝えることとなります。
この歴史からも、強い国に学び、優れた文化、政治制度、技術などを導入して独自のものに替えていく日本の姿を見ることができます。


2.大宰府天満宮訪問(福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号)
1)日本神道と"祟り神"
日本の『神道』とは万物に霊魂が宿っているというアニミズム(精霊崇拝)や自然信仰から発展したと考えられる日本の民族的・伝統的な宗教です。神道はその歴史的な起源から特定の教義や聖典、唯一神を持たない信仰の自由度の高い多神教の宗教であり、山や川、森、岩、野生動物、気象(自然災害)など自然の万物に宿る『八百万の神々』を崇拝するものです。また、近代日本の国家神道の神殿である靖国神社に『戦死した祖霊』が神として祀られているように、死んだ祖先や人間(英雄)が神々になるという思想も神道には含まれています。

それでは、太宰府天満宮の祭神である菅原道真公も、"英雄"として祀られたのかというと、それはちょっと違います。今でこそ学問の神として名高い菅原道真公ですが、それ以前は"怨霊"として恐れられていた存在であり、その荒ぶる御霊を鎮めるために、道真公の墓所の上に社殿を建てて、神として祀ったのが大宰府天満宮の始まりなのです。

怨霊とは、恨みを抱きながら非業の死を遂げた者の死霊(もしくは生霊)のことで、当時の人々は、本気で怨霊を信じ、そして怨霊の祟りを恐れていました。そこで、この怨霊を神様として祀リ上げることで祟りを封じるという、日本独特の"御霊信仰"というものが生まれてきたのです。

菅原道真公が学問の神様として崇められるのは、生前の彼の聡明さに由来するものですが、その彼が怨霊として恐れられるようになってしまったのは以下のような経緯があったからでした。

2)菅原道真公と太宰府天満宮の由来
菅原道真公は代々続く学者の家に生まれ、11歳にして詩を詠むなど幼少の頃からその才能を発揮しました。30歳にして貴族の入口である従五位下に叙せられ、33歳では最高位の教授職である文章博士(もんじょうはかせ)に昇進と異例の早さで朝廷の要職に就くことになります。その後、後ろ盾であった父が亡くなり、また道真のスピード出世を良く思わない者も少なくなかったため、道真は地方官である讃岐守(今の香川県)に任命されて都を離れることになってしまいました。しかし、その4年後に転機が訪れます。藤原氏が政治の実権を掌握しているのを快く思っていなかった宇多天皇は、律令政治に精通する道真に目をつけ、宇多天皇から請われて再度上京することになった道真は、宇多天皇のもとで遺憾無くその才能を発揮し、トントン拍子で出世していくことになり、ついには朝廷内実質No2の右大臣まで上り詰めます。
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左は若かりしころの道真公と右大臣となった道真公

しかし、道真の後ろ盾であった宇多上皇が出家したことで、道真は非常に危険な立場になってしまいました。
冷遇されて道真を恨んでいた藤原氏と、宇多上皇の影響力の排除を考えていた醍醐天皇たちの陰謀によって、道真は無実の罪を着せられ九州大宰府へ左遷させられてしまいます。
宇多上皇は処分の停止を醍醐天皇に訴えようと駆けつけますが藤原菅根が取り次がず、そのまま左遷の処分が下ることになりました。
もともと健康では無かった道真は左遷された2年後、再び京都に戻ることなく59年の生涯に幕を閉じることになりました。(903年)

奇怪な現象が起こるのはこれからです。

「北の天神縁起」(菅原道真公の霊を天神として祀る北野天満宮の草創の由来と、その霊験譚を集めた鎌倉時代に作られた絵巻)では、道真の死去した数年後のある夏の夜、道真の霊魂が比叡山の座主・法性房尊意の前に現れて、これから都に出没し、怨みを復讐ではらす決意を述べ、邪魔をしないようにお願いに来たと述べられています。

そしてまずは、菅原道真を追いやった首謀者の一人である中納言・藤原定国(ふじわらのさだくに)が41歳の若さで急死。(906年)
さらには、醍醐天皇に直訴するため裸足で駆けつけた宇多上皇の行く手を阻んだ藤原菅根(すがね)が雷に打たれて死亡。(908年)
この頃には菅原道真の祟りだと一様に恐れ始め、左遷に追いやった張本人、藤原時平は39歳の若さで加持祈祷の甲斐なく病気が悪化し、菅原道真の祟りに怯えながら狂死してしまいます。(909年)

時平の命を奪ったと噂された道真の霊は、その後ますます激しさを加え、時平の子孫たちを次々と死に追いやり、遂に醍醐天皇の皇太子の命まで奪うに至ります。

源光(みなもとのひかる)が狩りの最中に底なし沼に乗っていた馬ごとハマって行方不明。(913年)
醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった保明親王(やすあきらしんのう)が21歳の若さで急死。(923年)
保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)が今度は5歳で死亡。(925年)。

保明親王・慶頼王ともに藤原時平と繋がりが深かったことから、両者の相次ぐ薨去は菅原道真の祟りによるものとの風評が立ちました。
これを受けて醍醐天皇は道真を右大臣に戻し正二位を追贈する詔を発し、道真追放の詔を破棄することにします。
しかし、なおも、台風・洪水・疫病と災厄は収まりません。

延長8年(930年)6月にはなんと、内裏の清涼殿に落雷が発生する事件が起き、多数の死傷者が出ます。(清涼殿落雷事件)
特に死亡した藤原清貫(きよつら)は、かつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を命じられていたこともあり、これはもう、完全に菅原道真の祟りだと、益々恐れられることになります。
落雷の惨状も凄まじく直撃を受けた清貫は衣服を焼損し胸を裂かれた状態で即死。 醍醐天皇はこれを見てショックに打たれたのでしょうか、病に臥し、3ヵ月後寛明親王に譲位、7日後崩御してしまいます。
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こうして菅原道真を左遷を企てたもの加担したものは天皇といえどもその祟りから免れることはできなかったと噂されます。しかし藤原家では唯一、藤原時平の弟である藤原忠平(ただひら)だけは、菅原道真に同情の思いを寄せていて、励ましの手紙などを送っていたこともあり、祟られてはいません。ライバル達が全滅してしまって藤原忠平はこの後、摂政・関白となって藤原北家を支えていきます。忠平は、寛大で慈愛が深かったので、その死を惜しまぬものはなかったといいます。
 
これだけ関係者が死亡してしまうと、因果関係がやはりあるのではないかと思ってしまいますが、菅原道真公自身が実際に呪いの言葉を残した事実はありません。しかし、これらの事故が全て"道真の祟り"とされてしまったのは、関係者の心に余程やましいものがあったからなのでしょう。

醍醐天皇は、まだ在命中に、菅原道真の怨霊を鎮めるために、左大臣藤原仲平を大宰府に下向させ、919年に道真公の墓所の上に安楽寺天満宮を造営させました。これが後に太宰府天満宮となります。その後、947年に京都内にも道真の怨霊を鎮めるために北野天満宮が建てられ、御霊、雷神として祀られることになりました。しかし、道真公の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、生前の道真公の聡明さにあやかって「学問の神様」として祀られるようになって行き、そのまま現在に至ります。
本来、道真公は温厚な人柄でしたので、怨霊として恐れられるのではなく、"学問の神様"として崇められている現在の状況を喜んでいるのではないでしょうか。

3)太宰府天満宮訪問
自分が大宰府天満宮を訪れたのは、元旦前日の大晦日でしたが、それでも天満宮内は多くの参拝客で賑わっていました。

表参道から鳥居をくぐって境内へ入ります。
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境内に入ってすぐのところに御神牛の像がありました。
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天満宮の境内には多くの牛の像が置かれています。太宰府天満宮のホームページに「道真公が59歳の春に亡くなられた時、お亡骸を乗せた牛車が、都府楼の北東(うしとら)の方向へ向かって進んでいたところ、まもなくその牛が動かなくなり、それを道真公の御心によるものだとして、牛車の止まったところ、当時の四堂のほとりに御遺骸を葬った」ことが紹介されていいて、それが道真公と牛との関わりとも考えられますが、実はこれ以外にも諸説あって、現在では分からなくなっているようです。
神牛の頭を撫でると頭がよくなるそうで、まぁ今更どうでもいいけれどと思いつつ、毎回撫でています。

境内の中程にある心字池にかかる太鼓橋を渡って、更に奥に進みます。
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右手に志賀社があります。
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檜皮葺きの末社で、海の神綿津見(わたつみ)三神を祀ってあります。室町時代に再建された国の重要文化財です。

太鼓橋を渡ってまっすぐ進むと右手に手水舎が見えました。
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そして正面が楼門です。
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明治時代に火災で焼失し、現在のものは大正3年(1914)に再建されたものだそうです。

楼門をくぐると、本殿に対面します。
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檜皮葺きで、正面には唐破風状の向拝がついた、桃山時代の豪壮な様式で、国の重要文化財です。
本店の右に「飛梅」、左に「皇后梅」が植わっています。

「飛梅」は、都を追われた道真公が都を離れるときに、庭の梅を見て、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ」と詠んだところ、やがて道真公を慕って一夜のうちに京の都から空を翔けてきたとの言い伝えがあります。

さて、参拝が終わると表参道をブルブラしてみます。
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大宰府名物と言ったらまずこれと言えるのが梅ケ枝餅で、参道の至ところに梅ケ枝餅のお店を見ることができます。
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人気店には長い行列ができています。梅ケ枝餅は、小豆餡を薄い餅の生地でくるみ、梅の刻印が入った鉄板で焼いた焼餅で、その謂われについては、浄妙尼という老女が道真公の御心を慰めるために差し上げたとも、道真公薨去に際して霊柩に供えたものともいわれていますが、千年以上にわたって参拝者に親しまれている名物菓子です。
DSC05311.jpg
早速1個買って頂きましたが、中々美味しかったです。

今回記事をUpするのが遅れてしまいましたが、次回は、阿蘇山周辺の記事をUpする予定です。


PS.祝!『劇場版ガールズ&パンツァー』興行収入が10.5億円突破!

劇場版ガールズ&パンツァーの興業収入が10.5億円突破し、「あの花」を抜いて 現在深夜アニメ興行収入4位になったそうです。まずはおめでとうございます!

深夜アニメ劇場版興行収入
1. 28.4億 121scr 「ラブライブ!The School Idol Movie」松竹 (更新中)
2. 20.8億 129scr 「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語」ワーナー
3. 19.0億 137scr 「映画 けいおん!」松竹

4. 10.5億 *77scr 「劇場版ガールズ&パンツァー」ショウゲート ※更新中

5. 10.4億 *64scr 「劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」アニプレックス
6. *8.5億 *24scr 「涼宮ハルヒの消失」角川書店
7. *8.5億 102scr 「劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス」東宝映像事業部
8. *7.4億 *94scr 「劇場版 TIGER & BUNNY -The Rising-」 松竹/ティ・ジョイ
9. *7.0億 *38scr 「劇場版マクロスF 恋離飛翼」クロックワークス
10. *6.7億 *39scr 「THE IDOLM@STAR MOVIE 輝きの向こう側へ」

何しろ、自分もガルパン劇場版を4回観に行ったので、この興業収入10.5億突破にはある程度貢献したかも。
まぁ、自分の場合は、2回目以降は殆ど来場特典狙いというところに若干引け目を感じてしまうのですが、興業11週目の来場特典はダブル生コマフィルム配布とか何が何でも10億を越えてみせるという興業側の強い意思を感じましたので、例え入場特典ゲットが目的でも、興業側の誘いに乗って映画館へ足を運ぶのは結構アリだなと勝手にいい方へ考えることにしました。

ただ、このダブル生コマフィルム配布には、ちょっと意見をしたくなることが起きました。
この興業11週目の来場特典が開始される初日の1/30(土)は、自分は会社へ出勤せねばならなかったので、レイトショーを見に行くつもりでした。
仕事が終わった後、念のためこれから行く予定の名古屋109シネマズへ来場特典は残っているかどうかを確認してみたところ、なんと、3回目の上映への入場途中で品切れになってしまったとのこと。...あのなぁ、いくらなんでも配布初日の3回目の上映途中でなくなってしまうとは、用意していた数が少な過ぎない?
そこで、名古屋109シネマズへ行くのを急遽取りやめ、愛知県内の別の映画館へ問い合わせたところ、豊橋の近くにある映画館で来場特典がまだ残っていることがわかったので急いでWebにて次の日の上映の席を予約し、翌日の日曜日に高速を1時間飛ばしてMOVID三好というイオンタウン内の映画館へ行って来場特典をGet出来ました。やれやれ。
しかし、特典をGet出来たから良いようなものの、どうも主催側の準備不足のような気がして釈然としません。来場特典は、興行側が見に来てくださいと誘っているようなものですから、それに応えて来場した客には、出来るだけ来場特典を配布できるようある程度十分な数を用意してもらいたいところです(来場者全員に配布するのが無理なことは理解しますが、初日の途中でなくなってしまうのはいくらなんでも少なすぎです)。

さて、苦労して手に入れた生コマフィルムですが、以下のようなショボいものでした。
ガルパン特典1
ガルパン特典2
なんじゃコレww

生コマフィルムと言っていますが、現在はデジタルデータを上映しているので、実はこの生コマフィルムは、実際の上映に使われないお土産のようなものなのです。ですので、かなり高い確率で、何らかのキャラクターが写っているフィルムをGetできるものと勝手に想像していましたが、まさか2枚とも戦車だけとはなぁ...。この前メインキャラが写っていた生コマフィルムを手に入れることができたのは、結構運が良かったのかも。

さて、実はこのガルパン劇場版は2/20から4D上映が行われる予定なのですが、もうこうなったら、この4D上映を体験しに5回目のガルパン劇場版視聴へ行ってきます!我ながらよくやるよなぁ...

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