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大阪訪問(その1)(追記有り)

先週末に、OSAKA MUSEにておこなわれたfhanaのライブを見に行きましたが、一緒に大阪城の訪問も行ってきました。
DSC03647.jpg大阪城航空写真
(上の航空写真は、他者様ブログから転載させて頂きました。)
しかし、その後、現状の仕事に追加で別の現場仕事(そのせいで、今週の土曜日も仕事です)を抱える羽目になった挙句、タイミング悪く風邪をひいて体調がヘロヘロになり帰宅後は即爆睡する日々が続いていました。しかし、2週間以上更新を滞らしたくないので、とりあえず記事をUPしたいと思います。

1.大阪城の歴史
大阪城は大阪府のほぼ中央、大阪市の上町台地の北端に位置し、北は淀川とその支流を背負う天然の要害を利用した地に築城されました。この地には元々石山本願寺(一向一揆の総元締め)という戦国最強の武装宗教軍団が居を構えていましたが、織田信長がこれを足掛け11年にも渡る激戦の末降伏退去させたところで、自らが本能寺で倒れました。その後、豊臣秀吉が信長の後継者たちを実力で撥ね退け、次々と日本各地を平定していく中で、天下統一のために相応しい居を置く地として目をつけたのが大阪でした。大阪という地は、陸海ともに交通の便がよく、広い平野の背後に貯水池としての琵琶湖があり大都市を作るのには絶好の地でした。しかし、それまで何故大阪に本拠を置く大名がいなかったのかと言うと、交通の便が良いということは逆に攻められやすいというセキュリティー上の問題があるからで、大阪の地は本拠を構える地として見られていなかったのだと思われます。しかし、後年の築城技術の発達もあり、このセキュリティー上の問題を、秀吉は高い石垣を持つ大城郭を築くことでカバーしようと考えました。その構想の元に築城された大阪城は当時日本最大の防御力を持ち、かつ豪華絢爛な外観を持って完成されました。当時来日した宣教師であるルイス・フロイスは「城壁は頗る高大にして悉く石を以って畳み…櫓及び城壁は其の高大なること、瓦に金箔を施せることにより遠くより望見し得べく、このほか城内に著名うの建築物多し」と驚嘆したと言われています。しかし、この強固な防備を誇った大阪城も大阪夏の陣の直前に外堀を徳川家康によって埋められてしまい、丸裸になった大阪城は遂に落城し灰燼に帰します。その後、徳川家康は、この豊臣大阪城の上に5~7mもの盛土をし巨石を運び込み新たな徳川大阪城を築きました。ですから現在ある大阪城は場所こそ豊臣大阪城と同じ位置にありますが、石垣や縄張りは徳川大阪城のものです。大阪城と言えば、”太閤”秀吉が造った城のイメージがありますが、その城は現在は徳川大阪城の下に深く埋められてしまっているのです。

1)大阪城の縄張りと天守
以下に、豊臣大阪城と徳川大阪城の縄張りを示します。(この俯瞰図は、余湖様のホームページから転載させて頂きました。)
豊臣大阪城俯瞰図2徳川大阪城俯瞰図3
豊臣大阪城と徳川大阪城の大きな相違点は、豊臣大阪城本丸が大きく3段の構造を持っているところを、徳川大阪城は、盛土を行い平坦に均し一つの廓として再構成しているところです。豊臣大阪城は、この高低差を防御の中に取り込み、格段を塀で囲んで門が備えられていますが、その門は枡形構造を持っておらず、この辺は近世城郭より遅れているように見えます。一方の徳川大阪城は、本丸に続く全ての門が枡形構造を持ち、かつ本丸を囲むように多数の櫓を配置し、それぞれの櫓を多聞櫓で連結することで防御力を増強していることがわかります。また。その櫓も3重櫓が11基もあり(江戸城や名古屋城ですら、ここまで三重櫓の数をもっていません)、おそらくこれは豊臣の城のイメージを払拭する狙いがあるのかもしれませんが、三重櫓が立ち並ぶ威容は、やはり見る者を圧倒する豪華さがあったと思われます。

また、もう一つ、豊臣大阪城と徳川大阪城の大きな違いは、豊臣大阪城時代にあった南側の馬出し状の郭が徳川大阪城では無くなっていることです。しかし、この馬出し状の郭というものは、形状的にそのように見えるというだけであって、実際はその中に御殿のようなものも建てられていたようなので軍事的に意味のある廓ではなかったのかもしれません。いずれにせよ徳川大阪城ではこの廓を無くし、本丸をシンプルにひとつの廓として囲い、南側には枡形を持った門を備えました。おそらくこの方が、守る際には効率よく兵を配置でき、枡形門で防御力も向上したように見えます。

一方、本丸北側下の山里曲輪については、豊臣時代も徳川時代も、それほど変わらないように見えます。基本的に山里曲輪は、城主の憩いの場のような廓で、その部分については変える必要がないと考えられたのかもしれません。
以下に、豊臣大阪城と徳川大阪城の模型の写真も添付致します。
豊臣大阪城徳川大阪城

また、天守の形状も豊臣時代と徳川時代とでは異なります。
豊臣時代の天守は、複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階であったと考えられており、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦(金箔瓦)などに施された金を目立たせたと考えられています。下図左は、大坂夏の陣図屏風に描かれた豊臣大坂城天守で、実は夏の陣で描かれたものと形状が異なっています。おそらく夏の陣での天守は再建したものと考えられていますが、基本的に形状ははっきりしていません。
一方の、徳川時代の天守は、独立式層塔型5重5階地下1階で、江戸城天守(初代)を細身にしたような外観があり、白漆喰塗籠の壁面だったとみられおり、最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、以下は本瓦葺だったと言われています。下図右は、願生寺指図を元にした、元和期の大坂城天守です。これらの図からわかるように、現在の復興天守は、徳川時代の天守台上に、豊臣時代の天守外観を模した復興天守が築かれていることになります。
 大阪冬の陣天守徳川大阪城天守3

2)大坂の陣と豊臣大阪城の終焉
機動力・知略・戦略と抜群の人心掌握術で天下人となり、難攻不落の巨城"大阪城"を築いた豊臣秀吉ですが、そんな彼も朝鮮出兵中に病の床へ臥すようになり、慶長3年(1598年)8月18日ついに没します。秀吉にとって不幸だったことは、後継者を得たのがあまりにも遅かったことでしょう。秀吉が没した時、後継者秀頼はまだ僅か5歳であり、いくら天下統一がなされたといっても、それから10年も経っていない状況では、天下を掌握するにはまだまだ強力な求心力を持った人物が必要であり、それは5歳の秀頼に務まるものではありませんでした。結局は、日本を二分する関ヶ原の合戦が行われ、それに勝利した徳川家康が征夷大将軍となり武家の棟梁に任ぜられたことによって世の中の流れは完全に徳川になりました。しかし、大阪方は家康が征夷大将軍に任じられたあとも、家康のことを"天下の家老"としか見ておらず、秀頼が成人し関白に任ぜられれば、また元のように豊臣政権の時代になると考えていたのです。家康にとっては、このような他の大名とは異なる豊臣家をそのまま存続させることはできないので、例の"国家安康 君臣豊楽"の銘文で知られる方広寺鐘銘でイチャモンを無理やり付け、秀頼の江戸参勤か、淀殿が人質となって江戸に出るかあるいは秀頼が国替えに応ずるかの三択を迫り、当然これに応じなかった大阪方と、最後の決戦となる大坂の陣が始まるのでした。

2-1)大阪冬の陣と真田丸
慶長19年(1614年)11月に大阪城は20万の徳川勢によって囲まれました。
大阪冬の陣布陣図
大阪城の総大将はもちろん秀頼でしたが、実質的に軍事指揮権を握っていたのは大野治長で、治長は難攻不落と言われた大阪城と、城内の10万余の兵の存在をバックに初めから籠城する作戦でした。しかし、真田幸村(正確には信繁。しかし本文では幸村に統一します)や後藤基次(又兵衛)など、実戦経験のある武将たちは、後詰の援軍のあてがない籠城策には勝ち目がないと判断し、積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張し、大阪方の浪人衆は賛成を表明しましたが、が秀頼・淀君の意向はあくまで籠城戦術であり、結局受け入れられずに終わってしましました。しかし大坂城への籠城策が決定すると、幸村は真っ先に豊臣秀吉が生前、築城の際に悩み込んだ大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、幸村は自らそこへ入り、真田の兵が固めました。大阪城は、本丸・二の丸・三の丸のさらに外側に総構えと呼ばれる外曲輪があり、幸村はこの総構えをさらに有効に使うために総構えの外側に出っ張るように出丸を築き、大阪城を攻めようとする東軍の横から矢・鉄砲を射かける"横矢掛り"の施設でした。この真田丸はそう大きなものではなく100間(約180m)四方に簡単な櫓をたて、全面と左右の側面に堀を掘り塀と柵を巡らした陣城と言っていいような出丸です。
    真田丸1
    真田丸2
小さな出丸なので、東軍も一斉に大軍で攻めれば簡単に落とせると思ったのでしょう。12月4日に前田利常を中心とした先鋒の大軍が真田丸に総攻撃を仕掛けてきました。ところが、前田利常らの力攻めは返って犠牲者を多く出す結果に終わってしまいました。真田隊が堀や塀に取り付こうとする敵を側面から"横矢掛り"の攻撃をしたからでした。大阪冬の陣の時の戦死者の4/5がこの時の真田丸における攻防戦によって生じたと言われているので、いかに凄まじい戦いであったかということがわかるというものです。この戦闘で真田幸村は、初めてその武名を天下に知らしめることとなりました。

この戦況を見て家康は豊臣方に和議を提案してきました。当初、総大将・秀頼は和睦を拒否しましたが、家康が一晩中、約300門の大筒(大砲)で断続的に攻撃する為、轟音で母・淀君の神経が参ってきてしまいました。しかも一発が居室を直撃、侍女の8名が即死してしまい、その悲惨な現場を見て震え上がった淀君は秀頼を説き伏せ、城の『外堀』を埋めることを呑んで12月20日に和平が成立しました。

そして豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として幸村の叔父である真田信尹を派遣し、「十万石下さるべく候旨」条件を提示し寝返るよう説得しています 。幸村がこれを断ると、家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出てきました。これを聞いた幸村は「この幸村、十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたと言われています。

冬の陣の講和後、ただちに外堀の埋め立てに取り掛かった家康は、豊臣側が工事を担当したエリアまで「お手伝い」と称してどんどん埋めていっってしまいました。一気に内堀まで埋めようとする東軍に豊臣方が抗議しても、シラを切ったり、とぼけたりで、約1ヶ月後には外堀、内堀、全ての堀が埋まり、真田丸も壊されてしまいました。大坂城は本丸だけの裸城にされてしまい、さらに家康は、秀頼に大坂から別の土地への国替えと、すべての浪人の追放を要求してきました。この卑怯なやり方にさすがに秀頼は激怒し「和談要求は我がドクロの前で言え!」と言い放ったと言われています。

2-2)大阪夏の陣と真田幸村の奮戦
1615年4月28日、夏の陣開戦。兵力は豊臣軍約7万、徳川軍約15万5千。約2倍の徳川勢に、豊臣方の武将は丸裸にされた大阪城から野戦にうって出ました。

5月6日、「道明寺の合戦」。豊臣方は奈良と大坂を結ぶ道明寺付近に布陣して、畿内入りする東軍を各個撃破する作戦をとりました。しかし濃霧の中で豊臣勢は終結が遅れ、先に集合地点に着いて孤立した後藤又兵衛ら有名武将が、伊達政宗の騎馬鉄砲隊1万5千の前に次々と壮絶な戦死を遂げていきました。

幸村が到着した頃には戦線が崩壊しており、幸村は、撤退する大坂方の殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させました。幸村は伊達軍に対し、地面に伏した長柄槍隊で波状攻撃をかけ追撃を食い止めました。その時幸村は「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれています。しかし、大坂城に戻った幸村は、木村重成が八尾合戦で討死したことを知ることになります。

大阪夏の陣2
5月7日、幸村は徳川の主力が天王寺方面から進軍して来ると予想し天王寺口(茶臼山)に布陣しました。多くの古参武将が倒れ、疲弊した豊臣方の士気を一気に高める為、秀頼出陣を求めましたが秀頼側近によって出馬は阻止されてしまいました。

正午。幸村の正面の越前松平軍1万3千の後方に、家康は本陣を張ります。それを知った幸村は、狙うは徳川家康の首ただひとつのみと、真っ正面から真一文字に家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行しました。この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は壊乱して総崩れの観を呈するに至ります。中でも幸村率いる真田隊は、越前松平家の松平忠直隊・15,000の大軍を突破し、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、ついに後方の家康本陣に到達します。

本陣前では家康の旗本隊(先鋭部隊)が人間の壁を作り、真田隊の猛攻を受け止め凄絶な乱戦となりました。真田隊は討死が相次ぎますが、戦列を整えて3度本陣への突撃を繰り返し、そしてついに家康の『馬印』(うまじるし、本陣の旗)を引き倒すまでに至ります。家康にとって馬印が倒されたのは、生涯で「三方ヶ原の戦」の武田戦と、この真田特攻の2度だけのことで、真田隊の凄まじさに家康は2度も自害を覚悟したと言われています。

しかし数度に渡る突撃戦により部隊は消耗し、兵力で勝る徳川勢に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、傷つき疲れた身体を休ませていたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾仁左衛門に発見され、「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られたといわれます。享年49歳。

翌日、秀頼・淀殿は自害し、大野治長も秀頼に殉死。こうして大坂夏の陣は終わり豊臣氏は滅亡したのでした。


夏の陣で幸村の武神ぶりを目の当たりにした島津家当主・島津忠恒(家久)は、故郷への手紙にこう記しています(以下抜粋)。
「真田は日本一の兵(つわもの)。真田の奇策は幾千百。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。女も童もその名を聞きて、その美を知る。彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。前にいるかと思えば後ろにいる。真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。合戦場において討死。古今これなき大手柄」。

大坂の陣の後、家康は幸村の首実検の際に、「幸村の武勇にあやかれよ」と言うと、居並ぶ武将達がこぞって遺髪を取り合ったといわれています。そして家康は「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」としました。このように敵を「誉め称えていい」というのは極めて異例なことです。

兄の智将・信之は、弟の人柄をこう評しています「柔和で辛抱強く、物静かで言葉も少なく、怒り腹立つことはなかった」「幸村こそ国を支配する本当の侍であり、彼に比べれば、我らは見かけを必死に繕い肩をいからした道具持ち。それ程の差がある」。

普段はとても温厚なのに、戦場では無敵の漢に変貌する幸村の人柄が人々の畏敬の念を呼び、各地から集まった浪人衆をひとつに結束させました。それが圧倒的に不利な戦いの中で、徳川に一矢を報い、豊臣という一時代の終わりに花を添えました。戦局不利と見るや身内でも裏切りが珍しくない世に、幸村の家臣は誰も降参せず、これも高い人徳ゆえと諸将は感心し、庶民からも歌舞伎・講談のヒーローとされたました。そして、幕府もこれを禁じることはしませんでした。

戦国期においても時に失われがちな武士の誇りを、身をもって体現した数少ない本物の武士。武士が憧れた武士。武士の誉れとは、まさしく真田幸村の戦いぶりを指して言うのでしょう。

幸村ゆかりの地は、現在の大阪にも数多く存在しています。今回の大阪訪問では、時間的な都合でこれらの地を巡ることができなかったので、次回の大阪訪問では、必ず訪れてみたいと思っています。
三光神社
三光神社。真田丸があったと考えられる真田山公園の近くにあります。(真田丸の正確な所在地ははっきりとわかっていません)
  安居神社
安居神社。幸村が討ち死にしたと言われている神社です。
上記写真は、全て他者様ブログから転載させて頂きました。

3)徳川時代の大阪城
豊臣氏滅亡後の大阪城は、新たに徳川大阪城として再建され、幕府直轄領(天領)に編入されました。幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、これも譜代大名からなる2名の大坂定番と4名の大坂加番と、幕府直轄戦力たる大番2組による大坂在番が警備を担当しました。これを見ても、いかに徳川幕府が大阪城を重要な拠点と見なしていることがわかります。
しかし、江戸末期の慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって徳川慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡されました。
大阪城古写真2
幕末における本丸東側高石垣上の櫓郡。多聞櫓で連結された三重櫓が林立し、見る者を圧倒する景観でした。惜しくも維新の際に消失しました。
大阪城現在
現在の本丸東側高石垣です。上記櫓郡はぜひ復興してもらいたいですね。

4)近代の大阪城
明治新政府は城内の敷地を陸軍用地への転用を行い、東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられました。

1928年(昭和3年)に当時の大阪市長、關一氏が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し昭和天皇の即位記念事業として整備が進められました。集められた市民の募金150万円によって陸軍第4師団司令部庁舎と天守の建設がすすめられ、再建工事は1930年(昭和5年)に始まり、翌年に完成しました。
建築中の再建大阪城
1931年(昭和6年)に復興天守、第4師団司令部庁舎が竣工し、大阪城公園が開園されました。

しかし、城内に設けられた大阪砲兵工廠のため、第二次世界大戦では爆撃の目標にされ、多数の櫓を消失しました。特に終戦前日の8月14日の空襲は、1トン爆弾が多数投下され、近隣の京橋駅も巻き添えとなり、避難していた乗客に多数の死傷者が出たほどでした。このとき毎日新聞大阪本社屋上から撮影された「天守閣の背景に黒煙が濛々と上がる」光景は、後に「大阪夏の陣」などとも呼ばれましたが、天守閣に関しては天守台が損傷したものの破壊を免れました。
爆撃を受ける大阪と大阪城
空襲の火災の中の大阪城。
焼け野原の大阪
空襲によって焼け野原になった大阪城周辺
焼け野原の大阪城2
瓦礫の山となった森ノ宮駅方面から大阪城方向を望んだ写真。右奥に大阪城天守が写っています。

昭和6年に建造された大阪城天守閣は、徳川天守台の上に豊臣天守閣の外観を模した天守閣が建っているということになっており、あまり歴史的事実に即して造られたとは言えない状況です。確かに、これでは模擬天守閣と言われても仕方がないですね。

しかし、上記写真からもわかるように、この天守閣は大阪大空襲という大災厄を焼失せずに耐え抜いた歴史を持った天守閣でもあるのです。
空襲後、瓦礫の山となってしまった大阪の街で、焼け出された人々の目に大阪の象徴である大阪城天守閣が焼け落ちずに佇んでいる姿が映ったとき、まだまだ日本人はへこたれないという気持ちを沸き起こさせたに違いないと自分は思っています。

本天守閣は、1995年(平成7年)から1997年(平成9年)にかけて、平成の大改修が行われました。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われました。

豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも短期間に焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後80年を越え、最も長命の天守になりました。そして、1997年(平成9年)9月3日、国の登録有形文化財に登録されました。この天守閣は、単なる観光用ハリボテ模擬天守ではありません。戦火をくぐり抜けて存在する歴史的価値を持った強者天守閣なのです。

2.大阪城訪問(大阪府大阪市中央区大阪城1-1)
今回の大阪訪問では、大阪市内での駐車場探しに時間がかかるのではと思い、車で出かけず、全て地下鉄などの公共機関を利用しました。さらに大阪城内はかなり広いことは間違いないので、大阪城へは途中で貸し自転車を借りて向かいました。
DSC03601.jpg
自転車をこぎ続けて約20分。おおー、やっと大阪城が見えてきました。写真は大手門と6番櫓。
DSC03604.jpg
早速、大手門へ向かいます。大手門の多聞櫓と千貫櫓の向こうに天守閣が見えました。やはり天守を見ると胸が高鳴ります。
DSC03606.jpg
大手門を抜けてそのまま進むと、本丸へ向かう桜門前に到着します。何だか、外国人観光客が多いなぁ。
DSC03608.jpg
桜門を抜けると、桜門横の巨石にご対面。でけぇ!この石は蛸石と呼ばれていて、左下に蛸のような文様があるからこの名で呼ばれているとのこと。

DSC03610.jpg
天守閣前に到着。多くの観光客で賑わっていました。びっくりしたのは、日本人よりも圧倒的に多い外国人観光客で、感覚的にはおそらく6割くらいが中国人、2割くらいが韓国人、その他の国々の人が1割、そして最後に日本人がほんの1割程度のような感じ。とにかく全体の約80%ぐらいが中国人と韓国人で、あんたら日本が嫌いだったんじゃねーのかよ!と心の中でツッ込んでいました。
DSC03613.jpg

さて、時間もないので天守閣の中に入ろうとすると、どこからか"日本人のみなさ~ん、お願いですから来てください!"と妙に気になる呼び込みの声がどこからか聞こえてきました。ちょっとしたことで"人権侵害"だの"ヘイト"だのと取りだたされてしまう昨今、なかなか聞くことができないようなストレートな呼び込みだなと妙な感心をしつつ行ってみると、大道芸のお兄さんが客の呼び込みをしていたのでした。彼曰く、自分は日本語しかできないので、自分のトークで客が盛り上がらないのはキビシイからより多くの日本人を呼び込みたかったとのこと。更に、外国人客のほとんどがツアー客なので、芸がどんなに盛り上がっている時でも時間が来れば大量にさっといなくなってしまうのでそれが一番辛いとのことでした。なるほど、言うことは一々尤もで、納得できましたが、やっぱりちょっと"日本人の人来てください"を連発しすぎるので、こんなところをヨシフ君あたりに聞かれたらクレームを入れられるのではないかと一瞬心配しましたが、考えて見ればヨシフ君に糾弾されたおかげで尼ランで瞬間的に一位になった"日の丸街宣女子"のように、このお兄さんもヨッシーに糾弾されれば、かえって人気が出るかも。ちなみに自分も"日の丸街宣女子"は尼でポチりました。書かれている内容は事実に即したもので、"ヘイト"でもなんでもありませんでしたよ。
DSC03615.jpg
ジャグリングをやる大道芸のお兄さん。トークを売り物にしていると自分で言っていたように確かにトークは面白かったです。
image1.jpg
最後の大技。この状態で短剣のジャグリングを行って拍手喝采を受けていました。

大道芸に見入ってしまい、すっかり時間をとってしまったので、大急ぎで天守閣内部へ。天守閣内は展示館となっていますが、豊臣/徳川時代の大阪城模型以外は結構スルーしてしまったかも。どうやら、黄金の茶室を実寸大で再現したものもあったらしいのですが、全く気がつきませんでした。確かに、この模擬天守は戦火をくぐり抜けた価値ある建造物なのですが、やはりコンクリ天守の内部はあまり面白くないんですよね(;汗)。まぁ、それは仕方がないことなので、さっさと最上階まで上ってそこからの景色を楽しむことにしました。
DSC03619.jpg
最上階から見た、大阪市街の眺望。左下に見えるのは旧大阪市立博物館。もともとは陸軍司令部として建てられましたが、その後博物館となり、その博物館も2002年に閉館になったとのこと。
写真の奥に、ひときわ高く写っている建物が、あべのハルカスです。
DSC03621.jpg
北方向の眺めです。手前の丸い建物は大阪城ホール。一番左はクリスタルタワーです。

天守閣から出ると、大阪城を一周りしてみます。
DSC03636.jpg
極楽橋から見た天守閣。
DSC03644.jpg
本丸北西から内堀を挟んで見る天守閣。やはり、大阪城天守閣は外からの眺めが一番美しいですね
DSC03650.jpg
京橋口から城外へ出ます。京橋口にも巨石がありました。
DSC03653.jpg
京橋口と大手門の間にある乾櫓です。

今回の大阪城訪問はちょっと時間がなくて、あまり城内を見て回ることができませんでした。次回は、豊国神社へ寄ってみたいし、本丸にある庭園にも足を運んでみたいと思っています。

大阪の街探訪とfhanaライブについては、大阪訪問(その2)へ続きます。

追記(2015/06/07)
PS1:豊臣家のために戦ったもうひとりの武将-石田三成
今回、大坂の陣での真田幸村について書いたので、豊臣家のために戦ったもうひとりの武将石田三成についても書いてみました。何とか短く書く事を試みたのですが案の定長くなってしまったので、追記の欄に書く事にしました。もし興味のある方はどうぞ。

PS2:大阪都構想
これは本来、大阪市民にのみ関係するもので、大阪市民でない自分が語るべきものではないのかもしれません。でも、石田三成のことを書いていたら、何となく大阪都構想の投票結果について書いてみたくなってきてしまいました。これは、もちろん三成と橋下氏が似ているなどということではありませんよ。(でも、ちょっと似ている傾向のところがあるかも...)

PS1:豊臣家のために戦ったもうひとりの武将-石田三成

大阪は"太閤さん"が作った街-大阪人の太閤さん贔屓は、もしかすると東京(江戸-徳川家康)への対抗意識から来るものなのかもしれませんね。そして、その太閤さんの大阪方に付いて徳川軍と戦った真田幸村も大阪人の心をガッチリ掴んでいる武将です。なにしろ大阪夏の陣は、大阪方には殆んど勝ち目が無い戦であるにもかかわらず大阪方に付いて戦うのは、例えて言うなら弱かった時代の阪神タイガースを応援するような感じといったら、いくらなんでも失礼なたとえかもしれませんが、例え弱い側についてしまっていても義のため命をかけて戦うというのは、大阪人のみならず日本人の感性を揺さぶる行為であることは間違いありませんから(もちろん、幸村の戦いは、単なる判官贔屓などをはるかに超えた武神ぶりなのですが)、真田幸村の人気が高いのもうなずけるというものです。
では、大阪方対徳川方の戦いで大坂の陣の前におこなわれた関ヶ原の戦いで大阪方の大将を務めた、石田三成はどうでしょうか。これが真田幸村と対照的に、人気がないですね。まぁ、三成は、戦いの総大将でしたから、立場が若干違うことは確かなのですが、同じように豊臣方で戦い、同じく敗軍の将であるにも関わらず、この差はどうしてできてしまうのでしょうか。

Ishida_Mitsunari.jpg三成家紋jpg
石田三成というと、太閤検地などで力量を発揮したように、算術には優れていたけれども、目立った戦績を上げたことのない青白い顔をした「官僚」タイプの人物というイメージがあるのですが、では、「胆力」も「決断力」も無いような人物であったかというと、それは全く違うと思います。

運命の関ヶ原の合戦の年である1600年6月、家康は天下取りに向けて本格的に動き出し、五大老の1人上杉景勝(会津)の討伐準備で江戸に入り、諸国から兵を集め始めます。これを見た三成は蟄居の身にも関わらず五大老のうち毛利輝元・宇喜多秀家に、「家康公の行いは、太閤様に背き、秀頼様を見捨てるが如き行いである」と説得し挙兵の約束をとり付け、また五奉行の内の長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行も味方に引き入れることに成功します。更に7月17日、二大老・四奉行の連署で、家康の罪科13ヵ条を記した檄文を全国の諸大名に送り、毛利輝元を西軍総大将として大阪城に入城させるまでに至ります。

関ヶ原の合戦前の状況は、石高を見ても家康の255万7千石に対し三成19万4千石と比べようのない程の大きな差があり、戦績も武名も断然、家康が上なのです。にもかかわらず、三成は、筆一本にかけて全国に檄文を発し、蟄居という境遇から挙兵して短時日のうちに天下を二分するほどの一大勢力を結集しました。普通の人ならば、戦う前に諦めてしまうような実力差を、東軍と互角の陣立てで家康に真っ向勝負するまでに持ち込んだ手腕はやはりすごいと言わざるを得ません。

また、三成には、知力だけではなく、三成の人柄に惚れ込んで三成と運命を共にしてくれた武将もいました。三成は、ことを起こす前に、まず最も親しい越前敦賀の大名・大谷吉継に挙兵計画を打ち明けました。吉継は「今の家康に勝てるわけがない」と忠告したが三成は「秀吉様の遺言をこれ以上踏みにじらせぬ」と譲らぬため、吉継は“三成は昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかない”と腹をくくりました。そして、三成にこう述べたと言われています。「お主は横柄で傲慢だと上は大名から下は民百姓までが噂している。お主には失礼だが人望が無い。人の上に立つ者(総大将)は人望が無ければならぬ。お主がでしゃばれば、豊臣家大事を誓う者まで内府(家康)のもとへ走らせる。ゆえに総大将は安芸中納言(毛利輝元)殿、副大将は備前宰相(宇喜多秀家)殿を立て、お主は影に徹しよ」。何ともきつい進言ですが、逆に言えば、ここまで三成の身を案じてしっかり忠告してくれる武将を三成は味方に持っていたということです。

この大谷吉継と三成の間には以下のようなエピソードが残っています。
大谷吉継は秀吉に「100万の兵を与えてみたい」と激賞された名将でしたが、ハンセン病を患っており、当時の人々はこの病を感染病と誤解していたので、吉継は普段から顔や手を布で覆い隠していました。ある時、秀吉の茶会で吉継に茶碗が回った時、彼は飲む振りをして次に回すつもりが、傷口から膿みが茶に垂れてしまいました。列席した武将達は絶句し、吉継も茶碗を隣に回せなくなり、場の空気は固まってしまいました。その時、三成が立ち上がり、「吉継!もうノドが渇いてこれ以上待ちきれぬ、早くまわせ!」と茶碗をもぎ取り、そのまま最後の一滴まで飲み干してしまったとのことです。
このエピソードは、三成が他人を思いやり、かつ熱い心をもっていたことを示すものとして、自分が一番好きなエピソードです。

また、三成を支えた武将として、「三成にすぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と俗謡にも歌われた名将島左近がいます。左近はそれまで多くの士官を断ってきましたが、三成からの自分の知行の半分である2万石で召抱えたいとの申し出を粋に感じて、当時近江4万石の三成の家臣になりました。
関ヶ原の合戦の直前に、家康は左近を調略するために左近と親しかった柳生宗矩を送り込みます。すると左近は笑いながらこう答えたと言われています。「主の悪口になるが、主は決断が遅くそのためにいつも失敗する。わしは主に徳川殿に味方する諸大名にへりくだり、遺恨を無くすよう取り計らい、彼らと交わり親しむべきと申したのだが、主は一時逃れでへりくだるのは嫌だと申して受け入れぬ。とはいえ、わしは主を裏切れぬ。お許しあれ」
この島左近のもの言いも主を褒めているものでは全くありませんが、主である三成の良くないところをしょうもないと思いつつも、やはり一本気な性格な三成を思いやる気持ちが言葉の端々ににじみ出ているような感じがします。

東軍の将から「鬼左近」と恐れられた島左近も、名将大谷刑部も、関ヶ原の合戦では奮迅の戦いの後、戦場で討ち死にしています。また、これらの有名武将だけではなく、関ヶ原の合戦では西軍の寝返りが続く中、三成の家臣は誰も裏切らず、午後2時死闘の果てに石田隊は全滅しました。

合戦3日後に居城の佐和山城も落城。城内にいた父兄、石田一族は自害しました。西軍を裏切った小早川、脇坂らの武将は、早く武勲をあげようとして佐和山城に乗り込み、内部の質素さに驚きました。三成は約20万石の武将であるばかりでなく、秀吉に寵遇され、長く政権中枢に身を置いていたので、さぞかし城内は豪勢で、私財を貯えているだろうとおもわれていたのですが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には風情のある植木もなく、手水鉢は粗末なただの石だったからです。金銀の蓄えもほとんどなく、あったのは秀吉から送られた感状くらいだったと言われています。
三成の死後、佐和山の領民は三成生前の善政に報うべく、三成を偲んで佐和山城付近に地蔵を築いて霊を慰めたとのことです。

ここまで、一方の人には好かれる三成は、何故他方の人にはものすごく嫌われてしまっていたのでしょうか。何しろ、秀吉の死後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件さえ起きているのです。名だたる武将が身内の武将を襲撃するまでこじれてしまった原因は、三成の融通の効かない普段からの立ち振る舞いもあったのですが、朝鮮出兵における各武将の働きぶりや戦況を、戦争反対である立場の自分に都合がいいように秀吉に報告し、自分の思うように勝手に戦争終結に導こうとしたのが大きかったと言われています。当時の武士にとって、戦場で武勇を上げて名を残すということは、最重要の価値観でありましたが、官僚的思考を持っている三成にとって、名を残すなどという個人的な動機に重きを置こうとは思わなかったのでしょう。しかし、戦場で命を張っている者としては、三成のこの態度に不満を持ったのは当然のことだったのです。

また、関ヶ原の役で破れ、徳川方に捕縛されたあと三成は数々の武将や警護の者との間で交わされた会話の逸話を持っていますが、これらの会話に関する逸話から感じることは、何か言われたら言い返さずにはいられない三成の気の強さと相手の気持ちに対する洞察力に欠ける態度です。三成ほど頭の切れる者にとっては、言葉で相手を言い負かすことは容易だったことでしょう。でも言い負かされた相手は、別に相手の言葉に納得したので言い返さないというわけではありません。多くの場合は、納得しないけれども理屈で言い返せないから黙るしかないというだけなのです。いわんや、三成が身を置いた世界というのは、武功が尤も人の尊敬を集めた世界でありましたから、殆んどめぼしい武勲をあげたこともない三成が理屈で相手をやり込めたとき、相手がどのように思うのかは想像に固くありません。本来三成は、自分に非がないときでも殊更に相手を立てつつ細心の注意を払いながら自分が思う方向へ相手をうまく誘導していくということをするべきでした。しかし、三成は性格上そういうことができなかったのでしょうね。これでは武人から嫌われても仕方なかったのかもしれません。
しかし、大谷刑部や島左近、更に言えば豊臣秀吉などの度量の深い武将から見れば、三成はあまりにも理に勝ち、かつ一本気で思い込みが強すぎる気があるけれども、その心根には清廉な義の心が座っていることを理解していたはずです。
生きるか死ぬかの戦国の世において利害関係で動くのは仕方の無いところですが、利害関係や主従関係を超えて信頼できる武将と関係を持てた石田三成は、やはり歴史に名を残すにふさわしい武将であったと思います。

関ヶ原の役から大阪冬の陣・夏の陣と続く戦いは、徳川の豊臣からの政権奪取の戦いでありましたが、元はといえば家康は豊臣の家臣であり、武士の理からすれば、この政権奪取の戦いは家臣家康の主家豊臣に対する反逆の戦いでもありました。ですから、主に対する忠義を美徳とする武士にとって、これらの戦いは武士の忠義に背いたことになってしまうので、そこから目を背けさせるために、関ヶ原の戦いでは、必要以上に天下の大乱を招いた奸臣として三成に全ての罪をかぶせて貶めたということはあったと思います。(逆に大坂の陣では、必要以上に真田幸村の武功を持ち上げたということがあるのかもしれません。もちろん、それによって幸村の武神ぶりが損なわれるわけではないのですが。)
しかし、三成は20万石の豊臣の一家臣という立場でありながら、250万石の巨大な大名徳川に戦いを挑んだ果敢な男であり、西軍から裏切り者が出たことで人望がないように言われてきていますが、全滅するまで戦った石田隊の兵たち、大谷吉継、島左近、また三成に敬意を持って接した東軍の幾人かの名のある武将も、三成が人間的魅力をもっていたことを身をもって示しています。

石田三成は、『大一大万大吉』と記された旗印を用いました。意味は「一人が万民(大)の為に、万民が一人の為に、さすれば世に幸福(吉)が訪れる」というもので、いかにも三成の性格をよく表した旗印だと思います。

滋賀県長浜市石田町は、石田三成ゆかりの地であり、そこに石田三成の記念館・石田館があります。ここには是非行ってみたいですね。
石田会館外観石田会館内部
左は石田館外観。入口のマスコットは、"みつなりくん"というらしい。う~む。右は石田会館の内部。
大一大万大吉シール大一大万大吉御朱印大一大万大吉スタンプ
石田館の内部には、大一大万大吉のシールと御朱印があるらしい。こ、これは欲しい...
もちろん、スタンプがあるのはお約束。
佐和山城出発口2佐和山城址2
石田三成の居城、佐和山城は、関ヶ原の役の後、徹底的に破壊され、ほとんど何も残っていないとのこと。でも、石田館へ寄ったあとは是非、佐和山城へ寄ってみたいとい思っています。彦根駅の看板によると、彦根駅からの距離は、彦根城とほぼ同じらしい。これなら行くのは問題ないですね!
(上記写真は、全て他者様ブログから転載させていただきました。)


PS2:大阪都構想
自分が大阪へ行った時は、大阪都構想の住民投票がおこなわれた一週間後でしたが、その前は随分テレビでこの話題が盛り上がっていましたね。結局投票結果は、賛成派49.60%、反対派50.40%、その差僅か0.8%、得票差10741票という薄氷の差で反対派が勝利しました。

この大阪都構想の敗因について、投票の翌日からいろいろ分析がされていましたが、目立ったのはシルバーデモクラシーによる都構想頓挫という解説でした。それを解説するのによく使われたのが、年代別の賛否の結果を示した下記の出口調査結果で、これによると70歳以上の年代が他の年代に比べ約70%の人が反対しており、ほかの年代が拮抗もしくは賛成の方が多かったので、この70歳以上の年代が大阪都構想を潰したのではないかということでした。
年齢別投票結果
しかし、この表から上記結論を導き出すのは無理があって、この表では各年代の人数がわかりませんから、各年代の人がどのくらいの割合で賛成か反対かを考えているということはわかりますが、各年代の人がどのくらいの票数をとったのかはわからないのです。常識的に考えて、20代から60代までの住民の合計人数が、70代以上の住民の人数より多いことはありませんから、おそらく20代から60代までの住民の棄権票が多かったということなのでしょうね。まぁ、この年代の人は働いている人が多く、仕事の都合で行けなかった人も多数いると思われますので、この年代の投票率が低いのは仕方がないことなのかもしれませんね。

でも、細かい分析はさておいて、全体的に言えば、投票そのものは都構想反対で決着がつきましたが、その投票結果の内容は殆んど拮抗していたということが言えると思います。何しろ賛成と反対の差が0.8%ですから、どちらに転んでもおかしくないような投票結果で、つまり大坂の住民の方々は、どちらへ投票して良いか悩んでいる方も多かったということなのだと思います。では、こういうどちらを選ぶべきかを迷うような場合、最終的に有権者はが判断する決め手は、この法案を提出した為政者を信頼するかしないかということが大きいのではないでしょうか。
今回、薄氷の差で市長(維新の会)から提出された都構想は否決されましたが、それはこの都構想の内容に反対というよりも、有権者が為政者を信頼しきれなかった、つまり、どちらに進んでいいのか判断できないけれども、この人の言うことなら間違いないと思うので、この人の言う方に賭けてみようと人に思わせる力が欠けていたということなのだと思います。

市長の橋下氏は、市長になる前の府長に当選した時から、今までの大阪での慣行に大鉈をふるって改革を進め府の財政の立て直しを行ってきました。この橋下氏の実績を否定する人は多くないと思います。しかし、橋下氏の敵を作って徹底的に糾弾するという政治手法は見ていてどうかなと思うところが多々ありました。
自分は、橋下氏が政界に転出する前から、"やしきたかじんのなんでも言って委員会"での橋本氏の活躍ををテレビで見ていましたから、当然、橋下氏の政界進出を応援していました。橋下氏が茶髪の弁護士と言われる頃から応援しているで、自分はある意味、かなり熱狂的な橋下親派と言えるでしょう。そんな自分でさえ、橋下氏の政治手法を強引だと感じることもあったくらいですから、反対派はなおさらだったと思います。でも、それは、橋下氏に対抗する勢力に同調するということでは決してありません。個人的に、橋下氏が打ち出す制作の殆どに自分は賛成していましたので。ただ、政治家には、対立を煽るのではなく、反対派の意見も聞きながら、反対派を上手く説得し、いつの間にか相手に自分の言うことを聞かせるくらいの粘り強くかつ老獪なやり方をやってもらいたいのですよね。なぜなら、政治家は、自分に賛成、反対に関わらず全ての国民や市民に対しては責任を果たさなければならないはずなのですから。まぁ、それが非常に難しいことなのはよくわかりますが。

ともあれ、橋下氏は公約通り、次期市長選には出馬しないのでしょう。しかし、次の市長が、橋本氏が進めた改革を取りやめ、再び市の財政を悪化させることになったら、多分市民からの突き上げは厳しいでしょうね。反対派は、都構想が廃案になって大喜びをしていましたが、そんなに大喜びをしている暇は無いとおもいますよ。(しかし、選挙後、テレビで大喜びをしていた反対派は、実に悪い面々だったなぁ...。二○俊○とか、辻○清○とかの喜びようを見ていたら、暗澹たる気持ちになりました...)

ただ、今後、東京オリンピックが開かれるまで、経済の動向は東京中心となると思います。また、リニア開通もありますから名古屋も東京に引きずられて盛り上がると思います。もし、都構想が実現していたら、橋本氏が東京オリンピックに負けじと大阪を盛り上げていたでしょうね。しかし、残念ながら、しばらく大阪は耐える日々が続くと思います。

そして、個人的には、橋下氏にもう一度、一回りも二回りも大きくなってもう一度政治家として立ち上がって欲しいですね。橋下氏はやはり稀有な政治家であったと自分は思っていますから。

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