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岐阜訪問 その1(岐阜城、正法寺岐阜大仏、崇福寺、道三塚、加納城)

1.岐阜城の歴史
自分が初めて歴史物語を好きになったのは、おそらく子供の頃に見たNHK大河ドラマ"国盗り物語"からだったと思います。一介の油売りだった若き日の斎藤道三が、「とうとうた~らり とうたらり」のかけ声で油を注ぐときに漏斗を使わず一文銭の穴に通し、仮に一滴たりとも油がこぼれたらタダでしんぜようという謳い文句で大評判を取り、そのつてで武士への士官口を得て、そこから抜群の政治力を駆使して美濃の国一国を支配してしまうまでに上り詰めるのは本当に鮮やかでした。しかし戦国大名へ成り上がるまでがあまりに鮮やかな分、最後に自分の息子との戦い破れて殺されてしまうという結末はあまりに悲惨で、"国盗り物語"で描かれた下克上は子供心に強烈ない印象を残しました。

それから、40年経った先週末に初めて"国盗り物語"の舞台となった岐阜城を訪れた訳ですが、その時に岐阜城とゆかりのある"軍師勘兵衛"が丁度大河ドラマで放映されているのは、何かの巡り合わせでなのでしょうか...。何ていう程大げさなことは全く無いのですが、でも、岐阜城を訪問した時には、勘兵衛の岐阜城攻略の件と共に国盗り物語で若き道三が「とうとうた~らり とうたらり」の掛け声で油を売るシーンが頭に蘇ったことは間違いありません。もう、あの"国盗り物語"から40年経ったんだよなぁ。自分も歳を取る訳だ。
DSC02347.jpg
(上の写真は岐阜城の麓にある岐阜公園入口の若き日の信長像)

まぁ、こんな感慨はさておいて、以下に岐阜城の歴史を簡単に記してみます。

1)岐阜城の始まり(二階堂氏→土岐・斎藤氏→長井氏[実は斎藤道三?])
十三世紀のはじめ(建仁のころ)、鎌倉幕府の政所令二階堂行政が、ここに砦を構えたのが岐阜城の始まりと言われています。 その後、行政の子孫がここに居城し、姓を稲葉氏と改め稲葉山城といわれるようになりました。

戦国時代の動乱の中で、土岐・斉藤氏の一族が稲葉氏の砦遺構を利用して、ふたたび城を築き、城下町もできました。大永五年(1525年)美濃国で内乱がおき、守護土岐氏と守護代斉藤氏の実権は、長井氏に移りました。稲葉山城も斉藤氏の一族が居城していましたが長井氏に追放され、長井新左衛門尉の居城となりました。そして、現在の研究では、実はこの新左衛門尉(及びその子)こそが斉藤道三ではないかと言われるようになってきました。

斎藤道三2_2 斉藤道三が、灯油売り商人として、京都から美濃国へ下り、守護土岐頼芸の知遇を得て、一代で美濃一国を征服したことは、先に述べたように、NHKの大河ドラマ「国盗り物語」などで有名ですが、道三が若い頃何をやっていたのかということは実ははっきりとしていません。
しかし、「岐阜県史」の編さん過程で、近江の大名が家臣にあてた書状「六角承禎条書(ろっかくじょうていじょうしょ)」という史料が発見され、そこには「斎藤義龍(よしたつ)(道三の長男)の祖父新左衛門尉は京都・妙覚寺の僧侶をやめて、美濃の混乱の際に出世、父の左近大夫(道三)は主家を討ち殺して諸職を奪い」との記述が見つかった為、 現在では父と二代で美濃を奪い取ったとの説が有力になっています。それでは、何故二人を一人にするというようなやり方で、斎藤道三像が後世に伝えられたのでしょうか。

"美濃のまむし"と恐れられ、天下の"梟雄(悪逆非道な英雄)"として知られる"斎藤道三"ですが、その国盗りのやり方は、陰謀や暗殺だけでなく、巧みな政治力も駆使して成し遂げたものでありました。それは、インターネットなどによる簡単に手に入れる情報が全く無く、直接的な人と人の関係が全ての時代においては人を惹きつけるものがなくてはできないことであり、道三自身はある意味すごく魅力に溢れていた人物だったのは間違いないような気がします。いくら下克上の世とは言え、一介の庶民から大名まで成り上がるのは生半可な人間にはできないことであり、その道三のスーパーマン振りを強調するために、一代で国盗りをしたと、あえて尾ひれが付けられて伝えられたのではないでしょうか(これは自分の勝手な想像です。)
そして、道三自身の人間的魅力はもちろんのことですが、一介の町人から大名までに成り上がった栄華と、その悲惨な最後の対比があまりにも鮮烈で、その生き様が人を惹きつけずにはいられないために、道三の"国盗り物語"として後世に伝えられたのかもしれませんね。

2)稲葉山城の隆盛と衰退(斎藤道三→斎藤義龍→斎藤龍興)
道三は稲葉山城を要害化し、山の西麓に居館を建て、百曲道と七曲道に住人を集めて城下町をつくりました。 また、御園・岩倉・中川原に市場を設けて、商取り引きを盛んにしました。
天文二十三年(一五五四)、道三は突然隠退して家督を子の新九朗利尚(義龍)に譲りましたが、やがて父子の対立が生じ、弘治二年(1556年)の戦いで討死しました。義龍は戦国大名として領国経営に力をそそぎましたが、道三死後、わずか六年で突然病死し、あとを幼い虎福丸(龍興)が継ぎました。
しかし、斉藤氏の勢威は弱まり、織田信長の攻勢が盛んになる時に、永禄七年(1564年)、家臣の竹中半兵衛重治らによって、稲葉山城が一時期占拠される事件がおきました。

3)竹中半兵衛による岐阜城奪取作戦
ドラマ「軍師官兵衛」においても織田信長が稲葉山城を手中に収めたるために幾度も攻め込むのですが、その度に跳ね返されてしまいます
そんな難攻不落の稲葉山城でしたが、当時の城主である斎藤龍興は酒に溺れるような怠惰な生活をしており、それををいさめるため、斎藤家家臣・竹中半兵衛は稲葉山城の乗っ取りを決意します。その作戦は、いかにも希代の策士である半兵衛らしいものでした。

まずは人質として城内で暮らしている弟の久作重矩に仮病を使わせ、寝込ませませ、そこへ医療用具と見せかけ武器・防具をこっそり搬入しておきます。半兵衛は見舞いと称し数人の家臣とともに城内へ入り込み、搬入しておいた武器・防具をその場で装着。その勢いのまま一気に城内へと斬り込み、あわてた斎藤龍興は敗走。結局半兵衛はわずか16人という手勢で、信長ですら落とせなかった稲葉山城を手に入れてしまいます。

竹中半兵衛_2 幼いころから身体が弱く痩身であり、『その容貌、婦人の如し』と記録に残る半兵衛は、学問を好み、おとなしく無口、その上身体つきも弱そうで、乱世に生きる武士としては頼りなさそうにみえることから、仕えていた主君・斎藤龍興やその家臣たちから軽んじられ、侮辱を受けることもあったと言われます。半兵衛の主君・稲葉山城の斎藤龍興は、織田信長から何度も攻め込まれるという不安な状況にあっても、政務を顧みずに遊び放題。信長の侵攻があるたび半兵衛の知略により切り抜けるものの、城の士気は下がる一方でした。そんな主君の姿を憂えた半兵衛は一計をめぐらせ、1564年、たった16~17人の部下とともに主君の居城・稲葉山城(岐阜城)をわずか1日で乗っ取ってしまいます。
難関不落と言われた稲葉山城をわずかの兵を奪取した半兵衛は、名実ともに稲葉山城主となり、『美濃に半兵衛あり』とその名を全国に轟かせました。

これを知った織田信長は、「美濃半国を与えるから城を譲ってくれ」と半兵衛に申し入れますが、半兵衛は「わたしは、主君の行動を諫めるために決行しただけであり、主君が反省すれば、城は本人に返すつもりだ」と拒絶しました。
同じ年の夏、その言葉どおり城を龍興に返した半兵衛は、斎藤家をはなれ、故郷の垂井町に隠棲してしまうことになるのでした。

4)斎藤氏の滅亡と織田信長の入城
稲葉山城は再び龍興の手に戻りましたが、この事件によって斉藤氏は一挙に衰退し、ついに永禄十年(1567年)、稲葉山城は織田信長に攻略され、龍興は城を捨てて逃れました。
永禄十年、斉藤龍興を稲葉山城から追放した信長は、井之口を「岐阜」と改称し、「麟」の字の花押とともに「天下布武」の印判を使用しはじめ、岐阜の地を拠点として、天下統一をめざした城下町づくりに着手しました。

稲葉山城も岐阜城と呼ばれ、城の整備を大々的に行い、斉藤氏の居館を壊して新しい館の建設を始めます。また城下町の繁栄を図るために、市場税の免除や座(中世商工民の組合)の特権を否定する「楽市楽座」を推し進めた結果、信長の岐阜入城二年後に同地を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、町の様子を「人口は八千ないし一万人、バビロンの混雑」のようだと、本国へ報告しています。

5)織田信長の死と関ヶ原の役、そして岐阜城の廃城
天正三年(1575年)、信長は岐阜城を長男の信忠に譲り、翌四年に安土城を築いて、ここに移りました。天下統一へ大きな前進をしたのですが、天正十年(1582年)、明智光秀の謀反による「本能寺の変」で、信忠とともに京都で討死しました。
その後、文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は信長の孫秀信を岐阜城主に封じました。しかし、慶長五年(1600年)関ヶ原合戦で、秀信は家臣の反対を押しきって西軍に味方したため、東軍に攻められて八月二十三日落城、秀信は降伏し、高野山へ送られて同地で死去しました。
関ヶ原の役後の翌慶長6年、徳川家康は岐阜城を廃城として、天守閣、櫓等を取り壊し、それらを新しく築城した加納城に移させました。

2.岐阜城訪問
かつては安易な入山を拒むような金華山の急峻な山道も1955年(昭和30年)に開通したロープウェイを使えば数分で山頂付近まで到達するようになりました。(写真は、麓から見上げた岐阜城。右はロープウェイです。)
DSC02523.jpg

ロープウェイから降りると、岐阜城までの山道が続くので、それをてくてく歩いていきます。この山道は全てコンクリートで舗装されていて所々石垣も有るのだけれども、どこまでが当時の遺構なのかがちょっとよくわかりませんでした。
DSC02496.jpgDSC02498.jpg

以下は、余湖様のホームページから転載させていただいた岐阜城の俯瞰図です。
   岐阜城俯瞰図
この俯瞰図からもわかる通り、山頂での平面部は非常に狭くて周りの斜面も急峻で、非常に難攻不落の城であることが実感できます。でも実際には、岐阜城は戦国時代に結構攻められて落城しています(全部で7回ほど落城したとのこと)。しかし、この険しい山稜の地形に守られた岐阜城をどのように攻めて落城させたのか見当がつきませんね。

さらに山道を歩いていくと、目の前に岐阜城天守閣が現れてきました。
DSC02505.jpgDSC02515.jpg
実は、この天守閣は模擬天守閣と呼ばれるもので実際に岐阜城に存在した天守ではありません。そもそも、この岐阜城には天守閣があったのかどうかもはっきりしていないので、この模擬天守の存在そのものが全く史実に基づくものでは無いということになります。しかし、この1956年に建造された天守閣(なんと日本最古の模擬天守閣とのことです)は、なかなか周囲の風景とマッチしていて、岐阜のシンボルの1つとして周囲の方々から愛されているようですので、例え歴史上存在しない天守閣だとしても個人的にはOKです。(自分にとって一番嫌なのは、城址がただの公園になってしまって、そこにかつて城があって、遠い日本の先祖の方たちがそこで生活していたということを周囲から忘れ去られてしまうということです。そうなってしまうくらいなら、いっそ模擬天守でも建てて、お城であることを主張してもらったほうが自分としてはよっぽど良いです。まぁ、但し、ものには限度というものがあって、あまりに荒唐無稽なものは困ってしまうのですが...)

天守閣の内部は、資料館になっていて種々の展示物がありますが、やっぱりコンクリートで作られた天守であることがはっきりして、いかにも味気ないですね。ただ、天守閣最上部からの眺望は絶景で、この景色を眺めるだけでも天守閣に登る価値はあると思います。
DSC02508.jpgDSC02511.jpg

本丸下の井戸。
しかし、このような山頂に水が湧き出る井戸などがあるはずもなく、これは雨水や谷水を集める方式であるとのこと。
DSC02518.jpg

3.山麓城主居館跡
岐阜城の麓には歴代城主の館が建てられたとされていて、現在もその発掘作業がされています。岐阜城の遺構としては、山頂部のものよりも、麓の城主居館跡の方が歴史好きの方なら、興味があるかもしれません。
今までの発掘調査によって、この城主居館は、斎藤氏三代(道三、義龍、龍興)のころに作られ、織田信長が大規模に改修し、関ヶ原の合戦前哨戦まで使われてきたことがわかってきました。現在の発掘調査で見つかる遺構は信長時代のものばかりのようです。
信長時代の館は石垣や巨石石組みを用いて平坦地を造り、金箔瓦を使用した中心建物があったC地区、巨大な岩盤を背景にした庭園があったA地区、高層の建物や茶の座敷があったB地区などから成っています。こうした「建物」・「庭」・「茶」などの役割を持つ平坦地は、単独に存在するのではなく橋や廊下によって繋がれた一体構造であったと考えられているようです。
以下はその復元CGと平面図です。CGにおいては奥側が平面図上のC地区、手前がB地区、左手側がA地区になります。
信長館CG1信長館CG2
img046.jpg

下の写真は上図のC地区にあたる部分。丁度発掘を行っている最中でした。
DSC02478.jpg
下の写真は既に発掘が済んだ整備地区です。
DSC02481.jpgDSC02484.jpg

近くの発掘調査案内所にて、係りの方からいろいろ話を伺ったところ発掘にはまだまだ時間がかかる(おそらく数年以上)とのことで、全貌が明らかになるまでは気長に待つしかなさそうです。

4.岐阜公園
岐阜城や城主居館跡を含めて金華山麓一帯が岐阜公園として整備されています。
金華山に登るロープウェイ発着所の前には池や散策路があり、紅葉が綺麗でした。
DSC02348.jpgDSC02359.jpg

ロープウェイ発着所裏にある三重塔。
何やら曰く有りげですが、実はそれほど古いものではなく、大正天皇の行幸を記念して大正5年に建てられたものらしい。
DSC02519.jpg

5.岐阜市内の歴史的遺構
岐阜場周辺の以下の歴史的遺構を巡ってみました。これらの遺構は岐阜城を中心に車で15分以内の距離にあるものです。

1)岐阜大仏(正法寺)
岐阜公園から歩いて10分程のところに、日本三大仏と言われる(おそらく自称)正法寺・岐阜大仏があります。
最初、ここを目指して歩いたけれどもなかなかこの大仏殿を見つけられなかったのは、この大仏殿が塀や垣根など無くいきなり道路に面して建っていたからで、何度も前を通りながら全く気づかなかったという次第。何か変わったお寺だなぁ...。道路に面した部分は入口が無いので大仏殿の裏側になるようだと思って、脇道から入って反対側に回ると、入口があったのでこちらが正面になるようです。
DSC02526.jpg
しかし、改めて正面からこの大仏殿をしげしげと眺めてみても怪しい感じが消えなかったのは、"千と千尋の神隠し"の中に出てくる油屋に似ていると感じたからかもしれません?(ひょっとしてそう感じたのは自分だけ?)
油屋

でも、中に入ってみると大仏殿の外観で怪しいなどと思っていたのが申し訳なく思うほど立派な大仏様が鎮座されていました。入口で拝観料を払った際にもらった説明書を読んでみると、さらに驚いたことは、この大仏様が木材・竹材の骨組みに粘土を盛り、そこへ経文を貼り合わせ漆を施すことで作られた乾漆仏であるということです。つまりこの大仏様はこれだけ巨大であるにも関わらず金属が使われず、ほぼ手作りのような工法で作られた大仏様なのです。
DSC02527.jpg

その製作過程を想像すると気の遠くなるような作業ですが、実際発願から完成まで38年の年月を要したとのことで、正に制作に携わった人たちの願いが全身に込められているような大仏様ですね。
DSC02529.jpgDSC02532.jpg
大仏様の周りは、上の写真の様に小さな像で囲われていました。

2)崇福寺
織田信長の墓があるとのことなので岐阜城の北へ車で10分程の距離にある崇福寺へ寄ってみました。
DSC02544.jpg
崇福寺は、文明元年(1469年)に土岐茂頼と家臣の斎藤長弘によって建立された臨済宗妙心寺派の寺院で、永禄十年(1567年)九月に織田信長が美濃に入った際に織田家の菩提寺として保護をしたとされています。

本堂脇の小さな門をくぐるとその奥に信長と子の信忠の二人の法名を刻んだ墓があり、その右隣には二人の位牌を納めた廟があります。
崇福寺のパンフレットによれば、本能寺の変直後の6月6日、側室おなべの方の指示で、寺に信長の遺品を葬ったとのことで、その当時の緊迫した様子をおなべの方が折り紙(手紙)で伝えたと古文書に記してあるとのことです。
DSC02546.jpgDSC02548.jpgDSC02550.jpg

また本堂の中では、信長の孫の秀信が関ヶ原合戦の前夜東軍に攻められ岐阜城が落城した際に戦死した将兵の霊を弔うために、本堂前の天井にその戦死した将兵の血が残っている板を張っていて、"血天井"と呼ばれています。
               血天井
(本堂中は撮影が禁止されているので、上記写真は崇福寺様のホームページより転載させて頂きました。)

また、更にパンフレットを読むと、崇福寺三世住職の快川国師は甲斐の恵林寺の住職になった後に、織田信忠が甲斐国を攻めた時、武田方を匿ったとして信忠に攻められ"心頭滅却すれば火自ずから涼し"との有名な言葉を残し山門上にて焼き殺されたとのこと。
これらを読むと、加害者と被害者がごく短期間に入れ替わってしまう戦国という時代の非常さを改めて実感することになりました。

最後に、本堂前の崇福寺の庭園の写真を貼っておきます。
DSC02554.jpg

3)道三塚
崇福寺から西へ数百メートル行った住宅街の一角に斎藤道三の碑が今も残されています。

自分にとって、やはり"国盗り物語"の影響でしょうが、岐阜という土地は、織田信長というよりも斎藤道三ゆかりの地という印象が強く、ここへはぜひ寄ってみたいと思っていた場所でした。

道三塚へ行ってみると、そこは思ったよりも広くきちんと手入れがされている場所でした。立札の説明によると道三の遺体は、崇福寺の西南に埋葬されたけれども、塚は長良川の氾濫によって度々流されたので、斎藤家の菩提寺である常在寺の27代住職が、現在の場所に移して牌を建てたとのこと。
DSC02555.jpgDSC02556.jpg
道三塚の中へ入っていくと、中央に大きな盛土がされ、そこに植えられた2本の大きな木の間に小さな碑が祀られてあり、今でも綺麗な花が捧げられていました。
DSC02561.jpg
立札の説明文によると、"道三無念の最後"という伝承は住民の間にも残っており、特別な地としてこの塚には畏敬の念が払われ、周囲の開発が進む現在に至るまで守られ続けているとのこと。戦国時代に、常人をはるかに凌駕するパワーで駆け抜けていき、最後に悲劇的な散り際を見せた道三の生き様は、現代の人にとっても鮮烈で、畏敬の念を抱かせ続ける存在であることは間違いないと思います。

6.加納城訪問
岐阜という地名の名付けたのは、織田信長であり、道三が礎を築き信長が完成させた地というイメージを普通の人は持っていると思います。しかし、実は江戸時代には、岐阜城は破棄され岐阜一帯は尾張藩に組み込まれてしまい、岐阜の名前は歴史の表舞台から消えてしまっていました。そして岐阜城の代わりに、その廃材を利用して新たに加納城が築城されてその周囲に城下町が作られました。それが中山道の宿場町の加納で、一時期は日本の中枢だった岐阜が江戸時代には一気に尾張の辺境の地へ格下げされてしまった感があります。確かに岐阜城の山上部は不便だったかもしれませんが、その麓には城主居館があったので実質的な不便さはなかったはずです。それをわざわざ取り壊して新たに城を築城したのは、岐阜の地が持っている戦国時代の生々しい記憶を、当時の為政者は強引に断ち切ろうと下のかもしれませんね。しかし、江戸時代が終わると、早速岐阜の名前が復活したのを見ると、当時の美濃の住人も加納という地名よりも岐阜の名前の方がふさわしいと思っていたのかもしれませんね。

以下は加納城の案内板にあった加納城の復元図です。
加納城

城の周囲の石垣は思ったより残っていましたが、建築物は全て取り払われており、城の中はただの公園になっています。
DSC02436.jpgDSC02437.jpgDSC02434.jpg

しかし、やたらと石垣に登ることを禁止した立札が立っています。ちょっとうっとおしいなぁ...
DSC02445.jpgDSC02451.jpg

しかも、今の時期は5:00PMに門を閉めるとの城主様からのお達しまでもありました。城内には建物が何もないのになぜここまで神経質になるのかちょっとわからないなぁ...
DSC02439.jpg

PS.
今回、やたらと記事が長くなったので、続きをその2として分割します。

Comment

[67]

詳細な旅行記、感動しながら拝見しました。
神々しい大仏様、ぜひ私も見てみたいと思いました。
千と千尋のあぶらやに本当にそっくりですね。

[68]

お寺とかお城とか巡るの凄い良いですね~!

前々から色々なブロガーさんが旅行記を上げられているのを見るたびに憧れが強くなります><

特に紅葉シーズンの写真は凄く綺麗で(●^o^●)

岐阜公園の写真とかメッチャ好きです!

[69] Re: タイトルなし

nittiさん、コメントありがとうございます!
岐阜の大仏様は、本当に素晴らしくて、是非ご覧になられることをお勧めします。
あぶらやに似ているとnittiさんも思われたようで、ちょっと嬉しかったです。

それでは。

[70] Re: タイトルなし

ミサカ☆さん、コメントありがとうございます!
岐阜公園の紅葉は見事で、自分以外にも写真を撮っている人がたくさんいました。
残念ながら紅葉シーズンはもう終わってしまいましたが、冬の景色もよいものなので、次に何処へ行くのか思案中です。
受験で大変とは思いますが、それが終われば春には思う存分色々なところへ行くことができるはずですので頑張ってくださいね。

それでは。


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