Aiuto!の穴

≫2016年06月

信州・北陸100名城巡り(その②)

今週からついに新しい装置の据付が始まってしまいました。
自分が今年立てた目標は、この据付が自分にとって最後の大きな仕事になりそうなので、英語の勉強を据付工事が始まる前に眼一杯行うというものでしたが、工事が半年前倒しになったとはいえ、殆ど勉強しないうちに工事が始まってしまったのは痛恨の至りです。まぁ、嘆いていても仕方がないので、とにかく英語の勉強を始めるつもりです。ただ、現場の仕事が始まると、現場仕事の後に事務所に戻ってメール等のドキュメントワークを行うことになるので、帰宅が深夜か翌日になってしまう日々が続いてしまい平日は殆ど勉強できないというのが、今までのパターンで、今回もそうなることはほぼ間違いなさそうです...

このような状況なので、今後半年ほどはどこかへ出かけることも難しくなりそうですから、先月末に行った旅行については、この記事で何とかまとめておきたいと思います。

先月末の4日間の旅行の最終日は、金沢で友人と落ち合い、福井の朝倉館と永平寺を見てきました。前回は記事が長くなりすぎたので、今回は写真中心に紹介したいと思います。


1.一乗谷城(朝倉氏館跡)訪問
ここを訪れるのは、今回で3回目となります。同じお城を訪問するのは、恐らく熊本城に次ぐ訪問回数の多さになると思いますが、熊本城と異なり、ここには目立つような建物は殆ど何もありません。ただ、山間の谷間に突如人工的な平野部が現れて、そこは明らかに人の手が入ったように見えるのに、ガランとして殆ど建物が無いと言うところに独特の寂寥感のようなものを感じて個人的にものすごく気に入っているのです。

400年前、ここは越前朝倉氏5代の中心地として、多いときで1万人の人口を抱え、また応仁の乱から逃げてきた公家や僧侶たちからもたらされた華やかな京文化とも相まって、北の京と呼ばれるほどの栄華を誇りました。しかし、5代義景は織田信長との戦いに敗れ、先鋒として乗り込んできた柴田勝家の放火によって一乗谷の町は三日三晩燃え続け、100年続いた一乗谷の栄華は灰燼と帰してしまったのです。
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上空から見た一乗谷。
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当時の一乗谷の再現図。

燃え落ちてしまった後の一乗谷は、その後人が住むこともなく見捨てられ、さながらボンベイの遺跡のごとく土に埋もれ忘れ去られていきました。しかし、それから400年後の昭和43年(1968)から発掘調査が始まり、現在の遺跡の形に整えられて来ました。

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山間部に切り開かれた平らな土地。ここにかつて町があったことを伺わせます。
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遠くに見える朝倉館前の唐門。

1)朝倉氏館跡
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この唐門は、当時の遺構ではなく、後年、朝倉義景の菩提を弔うため、豊臣秀吉が寄進したと言われています。

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唐門を潜り中へ入ると朝倉氏館跡の基礎が広がっています。
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基礎の奥には、滝石組、護岸石組を持つ庭園跡があります。この庭園は完全に埋没していましたが、昭和43年の館跡の調査で発掘されました。
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背後の山腹から見た朝倉氏館跡。中央に四角く区切られ樹が生えている部分は花壇であったと言われています。

2)湯殿跡庭園
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館跡を見下ろす山腹にある湯殿跡庭園。朝倉氏遺跡の中にある3つの庭園の中で、一番荒々しい石組を持った庭園です。現在、水は枯れてしまっていますが水路が山際に沿って南から北に走り滝口に注ぐ池泉庭園となっています。

3)諏訪館跡庭園
諏訪館は朝倉義景の妻「小少将」の屋敷跡と言われています。庭園は遺跡の中でも最も規模の大きな、廻遊式林泉庭園です。
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中心の巨石とそれに並ぶ古木、その間を流れる水路のバランスがとてもよく、安定感があります。

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4)再現された街並み
特筆すべきは、ここに一乗谷の街並みが再現されていることです。江戸時代の街並みや武家屋敷ならば各地にまだ残っているところもありますが、中世の民家及び武家の屋敷が再現されているところはあまり無いと思います。
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街並みの雰囲気も中々です。
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内部は、このような人形を置いて再現しています。

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大規模屋敷の跡地。あちらこちらに桜の大樹があります。春になると桜の花が満開に咲いてとても綺麗です。

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今回、直前に訪問した永平寺で時間をかなり取ってしまったので、朝倉氏館を見る時間をあまり取れませんでした。次回は、もっと余裕を持ってゆっくり観て廻りたいですね。また、朝倉氏館の背後にある一乗山城にも、今後是非登城してみたいと思っています。

PS.
再現街並みの入り口に、一乗谷へ大河ドラマを誘致しようとのポスターが張ってありました。気がつくと、売店の中等、結構色々な場所にこのポスターが張ってありました。ですので、地元でこの誘致運動が盛り上がっているのかと、再現街並みの中にいた地元の方らしき人に、この誘致運動のことを尋ねてみたところ、”無理でしょ。だって地味だし、最後に滅んじゃったし”とあっさり返されてちょっと笑ってしまいました。いや、全くその通り。
このところ、アニメを町おこしに使おうとする町が多くなったことを時々ニュースで聞くようになりました。でも、中には作品の中身をろくに観ないでアニメを使おうとする町もあるようで、そういうのは作品に対しても町に対しても失礼なのではないかと思うこともしばしばあったのですが、今回即答してくれた地元の方のように、ちゃんと作品の内容を予測して町おこしに使えるかどうかを冷静に判断する姿勢は、やっぱり必要だなと感じてしまいました。

2.永平寺訪問
一乗谷へ行く前に永平寺に寄って見ました。

永平寺は、福井県にある曹洞宗の寺院で、横浜にある總持寺と並んで日本の曹洞宗の大本山となっています。宗祖は、道元禅師。

現在でも曹洞宗の道場、修業の場であると同時に多くの観光客の訪れる場ともなっています。禅の道に興味をもった多くの外国からの修業者も訪れています。申し込むと、泊まりこみで,雲水の修業に近い生活を送る参篭や参禅,研修もさせてもらえ、永平寺客膳料理として本膳,二の膳の精進料理も食べられるとのこと。もちろん、今回は見学だけです。以下に、永平寺の写真を貼ってみました。
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3.北陸で泊まった旅館
金沢では、相変わらず健康ランドの”テルメ金沢”に宿泊しましたので割愛して、上田で宿泊したホテルを紹介します。
・上田プラザホテル
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上田駅から徒歩10分ほどの距離にある、普通のビジネスホテル。では、なぜここに宿泊を決めたかと言うと、一階に併設されている”めざまし食堂”の朝食が美味しいとNetに紹介してあったからです。
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何の変哲も無い朝食。でも、見た目が普通なのに、本当に美味しかったです!別に高級じゃなくても普通に美味しい食事ってあるもんなんだなぁと実感してしまいました。まぁ、基本は普通の朝食なので、食べて感動するといった類の旨さでは無く、きちんとしたものを食べて体が健康になる気がするような美味しさ?です。あまり、ハードルを上げすぎるのも良くありませんからこの辺で止めておきますが、自分的にはここの朝食はお勧めですよ!

ホテルそのものは、若干古さが目立つので、新しくて機能的な感じのホテルを好む方は違うホテルを選んだほうが良いかも。しかし、多少古くても掃除は行き届いており、ロビーや階段にたくさんの本が設置されていて好感が持てました。
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こういう営業努力とても好きです。

4.北陸新幹線(&しなの鉄道)
今回初めて北陸新幹線に乗ってみました。
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ちょっと驚いたのは、運行本数の少なさです。地元の名古屋駅からは、のぞみが10分に1本くらいの割合で発着しているので、同じようなものかと勘違いしていました。
今回、北陸新幹線の各駅停車タイプである"はくたか"を使って、東京~上田~金沢間を移動しましたが、はくたかは、1時間に1本くらいしかないので乗車時間を確認してから行動しないと、駅で無駄な電車待ち時間を過ごさなければならなくなる可能性があります。でも、それは人口的に利用者数が少無いので仕方ありませんね。
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北陸新幹線が山間部を抜けて、日本海側の夕日が見れたときは結構感動してしまいました。

・しなの鉄道
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しなの鉄道は、北陸新幹線高崎駅 - 長野駅間の先行開業に際し、JR東日本から並行在来線として経営移管されることとなった第三セクター鉄道です。第三セクター経営の路線はどこも経営難ですが、地方の足として必要な路線ばかりですので、何とか頑張って欲しいところです。
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扉を自分で開閉するタイプです。
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小諸駅の駅舎。地方の駅舎は味があってとても好きです。ここにも"あの夏で待ってる"のポスターが貼ってありました。懐かしかったので以下にOPを貼って見ます。今回初めて気がついたのですが、OP映像の中に小諸城の場面がありました。

ついでに、EDも貼って見ます。ED曲"ビードロ模様"は、今では有名になってしまったやなぎなぎさんのデビュー曲です。

ここまで"あの夏で待ってる"を推しながら、実は途中で視聴を脱落しています(え...
OP/ED及び雰囲気は良かったのですが、話の内容がイマイチでした。本作は、次世代を担う事が期待される長井龍雪氏が監督を行いましたが、この頃から長井監督のPowerDownが始まったような気がします。


PS.オバマ大統領の広島訪問
自分が上田に宿泊した日は、調度オバマ大統領が広島を訪問した日で、宿泊後自分はずっとオバマ大統領の広島訪問のニュースに見入っていました。

自分は、あまりオバマ大統領という人を政治家的に信用していないところがあります。オバマ大統領の政治スタンスは、所謂リベラルと言うものなのでしょうが、理想を掲げながらも徹底的にリアリストでなければならない政治家というものに、自分の理想に重点を置いてしまうリベラリストという人たちは向いていないと自分は思っているのです。でも、この広島訪問は、そのリベラルなオバマ大統領だからこそ出来たことなのは間違いありません。その点は、オバマ大統領に感謝をしています。恐らく、オバマ大統領以外で広島を訪問する米国大統領は今後出てこないだろうと自分は思っています。

原子爆弾の投下は、広島で20万人、長崎で7万人の民間人を虐殺し、この2つの都市を一瞬で地獄に変えました。この27万人という膨大な人数の無差別な民間人虐殺は、明確な戦争犯罪であり、自分はこの行為を絶対に許すことが出来ません。しかし、直接の原爆被害者である日本被団協の田中事務局長が語った”被爆者に対しては謝罪をしてほしいという気持ちはありますが、それを強く求めることが核兵器をなくすことの障害になるのなら、ぐっと抑えて(オバマ大統領に)核兵器廃絶の先頭に立ってほしいという願いがある”の発言に含まれた核兵器根絶に対する強い思いは、多くの日本人の共通の願いでもあったと思います。そして、今回、日本政府はアメリカに謝罪を求めないことでオバマ大統領の広島訪問を実現させ、日本の右派も左派も、今回は互いによく沈黙を通し、政治的な発言を控えました。自分は、今回オバマ大統領の広島訪問が実現できて本当に良かったと思っています。

この広島訪問で、以下の映像や写真が繰り返し流されたのを覚えておられる方も多いと思います。
森重昭氏
このオバマ大統領と抱き合っている方はいったいどなたなのでしょうか。この方は、森重昭氏という普通の民間の方で、単独で広島城内にあった旧日本軍施設などで被爆し、亡くなった米兵捕虜12人の足跡を調査し見つけ出された方です。このことは、あまり日本で報道されなかったように思えます。毎日新聞では比較的詳しく紹介されましたが、朝日新聞では、極簡単に触れられただけでした。

自分も、Net上でイギリス人ジャーナリストのジュリアン・レイオール氏(英国デイリー・テレグラフ紙記者)が書かれたコラムの紹介記事を読んで初めて森重昭氏のことを知りました。

長いですが、このコラムの全文を掲載したいと思います。
(このコラムの全訳は、みずきの女子知韓宣言(´∀`*)様から頂きました。)

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1945年8月6日に広島に投下された原爆によって亡くなった犠牲者の中には、12人の米軍捕虜も含まれていた。
アマチュア歴史家の「森重昭」(79歳)さんは、40年以上を捧げて被爆米兵の遺族全員を探した。
米国の映画監督のバリー・フレシェットは、その記録を「Paper Lanterns」というタイトルの映画で紹介した。

40年の間、森重昭さんは、広島原爆で犠牲になった14万人ほどの人々を含む被曝米軍兵士12人の記録の断片(パズル)を合わせていった。
2016年に79歳になった森さんは、本人も被爆被害者だ。
自らを顧みず献身してきた彼の偉業は、被爆米軍の犠牲者「ノーマン」と、学生時代に親しかった友人の甥(映画監督のバリー・フレシェット)に知られる前までは、世の中にまったく知られていなかった。

「森さんは40年もの歳月を注いで、被爆米軍の謎を解いてきました。アマチュア歴史家として史実を非常に重視している森さんにとって、仔細で詳細な歴史的な発見が非常に重要だったからです。12人の米軍飛行士に敬意を表して、人々の記憶を一つ一つたどって、遺族に対して何が起きたのかを知らせたかった森さんは、ついにその仕事をやり遂げたのです」とフレシェット監督は言った。

バリー・フレシェット監督と森さんが出会った運命は、監督が生まれるはるか前、米陸軍所属B24爆撃機のロンサム レディー号とトロア号が、別の2機の米海軍の戦闘機と共に、 1945年7月の終わりに日本巡洋艦を爆撃して撃墜された時点からすでに始まっていた。
撃墜された爆撃機の乗組員がすべて生き残ったのではなかった。
パラシュートで降下して日本に救助された13名は、近くの都市の広島の日本軍憲兵隊司令部に護送された。
その後、トーマス・カートライト中尉は尋問のために東京に移送された。
この分かれ道が、トーマス中尉の命を救うことになった。

1945年8月6日の朝8時15分に原爆が広島上空で爆発したとき、米軍捕虜が抑留されていた憲兵隊司令部は、爆心地から400メートルの距離だった。
9人の捕虜は即死した。
シアトル出身の「ヒュー・アトキンス」軍曹は奇跡的に生き残ったが、次の日に放射能の症状で死亡した。
残りの二人の「ラルフ・リール」軍曹と「ノーマン」上等兵は、原爆が600メートル上空で爆発する直前に、尋問を受けるために憲兵隊からやや離れた場所に移送された。
しかし二人もまた、原爆の影響から完全に逃れることはできなかった。
日本人医師からの応急処置と治療を受けたが、13日後に放射線症状で死亡することになって、日本の憲兵隊員によって葬儀が行われた。
8月9日、第二の原爆が長崎に投下されて、日本は8月15日に降伏した。

1945年当時8歳だった森さんは、広島を覆う惨禍の中で九死に一生で生き残った。
森さんは、当時の状況をこう語った。

「爆発当時、爆心地から2.5キロ離れた北西の方の丘にいました。爆風に押されて川に落ちて、やっと意識を取り戻した時は、キノコ雲の真ん中にいました。世界中が暗くて、目の前10センチメートルの距離の私の指の動きですら見えませんでした。焼けるような感じ(熱気)が信じられないほど強くて、周辺の木々や家、そして、その中にあるものが空中に吸い込まれて巻き上がっていました。地球が爆発したのではないかと思いました」

戦後、森さんは、自らの人生設計に邁進した。
学校では特に歴史科目に興味があったし、成績も非常に良かった。
森さんは歴史の教授になる夢を育てていくと同時に、大学卒業後は大手証券会社、そして後には楽器メーカーヤマハで定年まで働いた。
リサーチ(調査活動)は週末を利用した。
森さんの歴史研究への情熱は、持続した。
38歳の時に森さんは、当時の米軍の飛行機が、伊陸村(現在の山口県柳井市)近くの山に墜落したという話を聞いた。

「この話を聞いて、私は実際に墜落したという現場を訪ねて、農家の噂をたよりにして捜した結果、みんな墜落の事実をよく知っていました。そして、彼らは墜落現場に私を案内してくれました」

森さんが現場で目撃したのは、米軍爆撃機の「ロンサムレディー号」の残骸だった。
その後数年間の研究を通じて、森さんは米軍の乗組員の名簿一人一人をすべて把握して、かれらが広島憲兵隊司令部に移送されたことを明らかにした。
併せて、その後に墜落した別の米軍の爆撃機の乗組員三人も捕虜に追加されたことも分かった。

しかし森さんは、名前を確認しただけでは満足できなかった。
可能なら遺族を見つけ、自分が明らかにした情報を最大限に伝えようと思った。
政府機関は事実上、参考にならなかった。
まず死亡した米軍のファミリーネーム(姓)を探して、同姓のアメリカ人を見つける作業から着手した。
当時、携帯電話で国際電話オペレーターの通訳を介して、ワシントン州を皮切りにして、米軍の死者とファミリーネームが一致する人を探し始めた。

「調査は簡単ではありません。私は心臓の機能に問題があって、米国現地に行くことができませんでしたし、米国には50個もの州があって、同じ姓を持つアメリカ人が無数にいたからです。それでも、死ぬまで探そう、何とか遺族を探して、死亡した米軍兵士の写真と名前を正式に平和記念資料館に原爆犠牲者として登録しなければと決心しました」

国際電話通話料金の請求書は、毎月7万円ほどになった。
調査はずっと難航した。
そしてついに、「ジェームズ・ライアン」の兄「フランシス・ライアン」と出会ったのだ。

「被爆米軍兵士の名前を最初に平和記念資料館に登録する時、思わず涙があふれました」と森さんは当時を思い出した。
「誰にも知らせずしていた仕事だったので、誰からの助けを受けることもありませんでした。困難が続きましたが、私は何とかこれを成し遂げたかったのです」

「フランシス・ライアン」から出撃前に撮った写真をはじめとする新しい情報を得ることができたし、B24爆撃機ロンサムレディー号の機長の「カート・ライト」中尉を見つけることに成功した。
「カート・ライト」氏とは、それ以来20年以上の友情を築いた。
カート・ライト氏が昨年(2015年)に亡くなるまで、お互いに交換した手紙は100通を超えた。

「広島には原爆犠牲者のための数十個の慰霊碑があります。しかし、犠牲になった米軍兵士のための碑は一つもありませんでした。私は幸いなことに生き残りました。だから、生き残った私は何とか遺族を見つけ、愛する家族(米軍兵士)の最後の様子を伝えなければという気持ちがより一層切実になりました」

1999年森さんは、12人の被爆米軍の犠牲者の記念碑を広島憲兵隊司令部のあった場所に建てた。
2012年には、トルーマン大統領の孫のトルーマン・ダニエルさんと共に、この記念碑に献花して、弔意を表した。
徐々にこのような森さんの努力が世に知られるようになって、米国メリーランド州の米国州立国会図書館の膨大な資料をはじめとする他の様々な膨大な資料をもとに、最終的に12人の被爆米軍の犠牲者全員の遺族を見つけ出すことになった。

森さんは、最後の12人目の米軍の遺族を探し出したとき、もう目的を達成したという気持ちにしばらくなっていたが、決して研究活動からは手を離さなかった。
今は二番目に原爆が投下された長崎で犠牲になったイギリス軍とオランダ軍捕虜の遺族の行方を探しているところである。

被爆米軍の「ノーマン」上等兵の遺族は、森さんが様々な情報を送ってくれたことに対し、森さんに心から感謝している。
このような事情をノーマンの学生時代の友人の「エディ・シャンドゥネ」が知ることとなった。
「エディ」は、自分の甥の映画監督「バリー・フレシェット」に、ノーマンの遺族らが長い間知らなかったノーマンの最後の詳細を知ったことを喜んでいると伝えた。
バリー・フレシェット監督は、「遺族が整理しておいたノーマン関連の本を手に入れて読みましたが、すぐに熱中しました。その話は広島で被爆した12人の米軍の話でした。ところで、私たちの世代の人々は、このような話を全く知りません。そのため、この話を世の中に知らせなければという考えを持つようになりました」と述べた。

バリー・フレシェット監督は、2013年の春、初めて森さんに連絡を取った。
そして翌2014年2月には、ノーマンの遺族が渡した本の内容が本当かどうかを直接本人の目で確認するために、単身で日本に入国した。
監督はこう言った。

「森さんの家に到着して応接室に入ると、乗組員一人一人の書類が、ピアノや応接テーブルなどの上にぎっしりと置かれていました。森さんは、それぞれの乗組員について、驚くほど詳細で正確に調べていました。結婚していたのかどうか、子供がいるのかどうか、子供が何人なのか、出身地と搭乗爆撃機の関連情報など…そして、私はその場でこれを必ず世の中に知らせなければという思いをさらに強くしました。ノーマン氏の故郷のマサチューセッツ州ローウェルに住んでいる人よりも、はるかにノーマン氏についての詳細を知っている人に日本で会うことになるとは、夢にも思いませんでした」

監督は最近2年間のドキュメンタリー制作に集中する中で、「ノーマン」氏の甥「スーザン・ブリセット」氏と「レルプ・ニール」氏と一緒に日本を訪問した。
ノーマン氏の遺族と森さんとの出会いは、実に感動そのものだった。
このシーンは監督の映画「Paper Lanterns」のクライマックスに入った。
映画は米軍それぞれの遺族と、ピースの形になっていたパズルを合わせていくアマチュア歴史家森さんの話だ。
森さんは、映画の最後の部分でこう言う。

「戦争とはこのように悲劇的なことです。今後の世界は常に平和であることを願っています」

○森重昭(79歳)

-1937年生まれ、アマチュア歴史家、広島被爆の経験者。現在、妻の佳代子さんと広島在住。二人の子供がいる

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森氏はその功績で、在日米大使館から日本人で唯一人、この式典に公式に招待されました。

このコラムを読んだとき、森重昭さんの尊い行いに思わず胸にこみ上げるものを感じたのと同時に、この事実を外国人が書いたコラムで知ったことを日本人として恥ずかしくも感じました。


信州・北陸100名城巡り(その①)

また、前回の記事から、かなり時間が経ってしまいました。どうも、こまめにUpする時間が取れません...

東京お登りさんツアーを木曜と金曜の2日間で終わらせた後、週末の土曜日曜は信州上田・小諸から福井へ足を伸ばし100名城巡りを行って来ました。

ただ、今回の100名城巡りは、直前の東京でのタイトスケジュールの流れで行ってしまいましたので、ちょっと急ぎすぎたと反省しています。今後は1日1城のペースを基本に、周囲の街並みの散策を含めて、ゆっくり100名城巡りを進めて行きたいと思っています。でも、なかなか休みが取れないので、それも難しいのですが...

今回の100名城巡りでのお城訪問は、いつかリベンジをしたいと思っていますので、今回は暫定版のような感じでUpしておきます。

1.上田城訪問
東京から北陸新幹線を使うと約1時間半程で長野県上田に到着することが出来ます。上田駅は北陸新幹線の停車駅になって、とても綺麗な駅になっていました。
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そして、もちろん駅前には真田幸村の銅像が。お約束ですね。
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このJR上田駅から徒歩15分くらいの場所に上田城は位置します。折りしもNHK大河ドラマ真田丸の放映期間中でしたから、とにかく人が多かったです。
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城内には、この真田丸放映を記念して”真田丸大河ドラマ館”が開設されていました。
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せっかくなので、中へ入って見ました。もちろん、内部は多くの人でごった返していましたが、県外からの観光客だけでなく、地元の人も多いよう感じました。この大河ドラマをきっかけに、あまり歴史に関心が無かった地元の人も訪れるようになったのかもしれません。人気ドラマのパワー侮りがたし。

自分は、中々連続してドラマが見れないので、かなり前から大河ドラマを見なくなっているのですが、たまに真田丸を見ると確かに面白いですね。この内容であれば、人気が出るのも判ると言うものです。ただ、草刈正雄さん演じる真田昌幸のカッコ良さはちょっと反則かも。

上田城は、1583年に真田昌幸が築城したものですが、実は徳川家康の多大な援助を受けて、徳川の上杉氏に対する最前線として築城された城でした。しかし、その後、真田昌幸は、この徳川の援助を受けた上田城で第一、第二次上田合戦と2回も徳川氏と戦い、いずれも多勢の徳川氏を撃退させているのですから、それは正に謀将と呼ばれた昌幸の面目躍如と言える出来事でした。しかし、天下分け目の戦いである"関ヶ原"では西軍に味方し、第二次上田合戦で徳川秀忠を足止めさせて合戦に参加させなかったことへの咎めで、昌幸は九度山へ配流させられそこで没することになります。また、徳川に散々辛酸を舐めさせた上田城も徹底的に破壊されてしまいます。実は、現在の上田城は、後から入封した仙石氏によって作られたもので、一応旧上田城の上に、現在の上田城が築かれたとされていますが、真田氏が築城した上田城とは直接関係のないものなのです。しかし、城内には"真田井戸"や大手門の”真田石”など真田氏の名声にあやかった伝説のようなものが数多く残されているので、やはり当時から武士の間でも真田氏の人気は高かったのでしょうね。何しろ将軍家に一泡吹かせた伝説の武将なのですから。

以下に上田城の写真を貼っていきます。
大手門と大手門右の北櫓。北櫓は民間に払い下げられていたものを市が買い上げて上田城に戻したもの。大手門は近年の復元です。
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大手門の左手の南櫓。こちらも民間に払い下げられて、一時期は遊郭になっていたとのこと。
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櫓の内部。
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内部から見た大手門と櫓。
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真田神社。元々は、松平神社と呼ばれ、創建時藩主の松平氏や仙石氏、真田氏など歴代藩主を祀っていましたが、今では真田神社と呼ばれることになったとのこと、
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西櫓。この櫓は仙石氏が築城した当時から存在する現存櫓。
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本丸の土塁とお濠。
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尼ヶ淵から見た南櫓。河岸段丘になっており石垣も2段になっています。上田城が防御として天然の地形を利用して築城されたことがわかります。
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最後に、上田城のMapを示した城内の案内板を載せてみます。
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真田昌幸は流刑先で没し、次男の真田信繁(幸村)も、大阪の陣で徳川に一矢報いる大活躍で武名を全国に轟かせましたが戦場で討死にをしました。しかし、長男の信幸は家康の家臣本多忠勝の娘を妻に迎え、東軍として親子で分かれて戦かったので真田の血筋は絶たれることなく生き残りました。

真田信幸は、父の昌幸や弟の信繁に比べると地味な存在になりがちですが、第一次上田合戦では大いに活躍し、その器量を見込んで家康は、本多忠勝の娘・小松姫を家康の養女とした後に信幸に嫁がせ徳川の縁者にした程の実力の持ち主でした。関ヶ原の役の後、昌幸と信繁が西軍側について第二次上田合戦で、秀忠の足を止めた咎で処断を決めていた徳川家康に対して、自らの戦功・領地そして命までをも投げ出して助命に走る姿が諸将の同情を引き、舅の本多忠勝も「お聞き入れくだされなければ、それがしが殿と一戦仕る」と家康に啖呵を切った事から、父と弟は九度山への流罪ですむことになったと言われています。
信幸は確かに、父と弟に比べて地味な存在に見えますが情と信義だけでなく、粘り強さも備えた武将であり、大阪の役の後も、弟の信繁が豊臣方として大活躍した事から、内通を疑われて取り潰されそうになったところを、父ゆずりの老獪さで渡りきりました。その後、真田氏の父祖の地である上田から、河川の氾濫などにより痩せた土地だった信濃国松代へ左遷同様(というより秀忠からのあからさまな嫌がらせ)の転封となりましたが、良妻・小松姫の助力で松代藩を立て直して、明治維新まで続く藩の基礎を築きました。真田の血筋が残ったのは正に信幸(後に信之に改名)の知略と努力の賜物と言えるでしょう。
大河ドラマ真田丸では、大泉洋さんが中々いい味で信幸を演じていますね。出来れば真田丸は、全話DVDかBlu-rayで出して欲しいところです。

真田信幸が入城した松代城は、100名城に含まれていますし、上田城だけでなく真田一族の旧本拠であった真田本城などの城跡も見てみたいので、上田はもう一度訪れたいと思っています。ただ、とにかく今は真田丸ブームで人が多すぎるので、再訪問はもう少し落ち着いた頃の多分数年後くらいになりそうです。


2.小諸城訪問
上田駅から、しなの鉄道に揺られること約20分で山間の小さな町小諸に到着します。その小諸駅から歩いて5分程の所に小諸城は位置します。
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小諸城は、戦国時代、武田信玄の軍師であった山本勘助が縄張りをしたと言い伝えられています(根拠となる史料はないとのこと)。その後、仙石秀久が小田原征伐での功労が認められ5万石の大名として、天正18年(1590年)に入城してから石垣などが構築され近代城郭としての構えが整えられました。三重天守もその時に建てられ、その天守には桐紋の金箔押瓦が用いられていましたが寛永3年(1626年)に落雷によって焼失してしまいました。2代目仙石忠政が上田城へ転封となった後、江戸時代には小諸藩の藩庁が置かれ、その後は松平氏、青山氏、酒井氏などが封じられましたが、元禄15年(1702年)に牧野康重が移封された後は国替えは行われず、牧野氏10代康済の時に明治を迎えました。

この城の特徴は、なんと言っても天然の地形を利用した縄張りにあります。
以下に、余湖のホームページから小諸城の俯瞰図を転載させて頂きました。
     小諸城俯瞰図
城の両脇は天然の堀切になっており、登坂は不可能と思われる程切り立った崖を利用した天然の要害になっています。また、ここの地形は、本丸のある西側に向かって傾斜しているので、三の丸が城内最高所という位置関係になります。つまり城内に進入するにしたがって高さが下がっていくことになり、そういうことから、この手の城を「穴城」と呼ぶのだそうです。
以前は、二の丸の東側に広大な三の丸が存在しましたが、現在は市街地となってしまい三の門だけが残っています。

以下に、小諸城の写真を載せていきます。
小諸城の顔となっているのが、この三の門です。懐古園の入り口ともなっています。
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入り口のところに、”あの夏で待っている”の等身大Popがありました。どうやらここが舞台となっていたようですが、どのくらいの人がこのアニメを覚えているでしょうか。
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石垣は苔むしていてすごくいい感じです。
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北の丸から黒門橋を渡って馬場へ入ります。
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黒門橋から見た北の丸と馬場の間の堀切。すごく深い!
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城内に懐古神社がありました。
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本丸の石垣の上を歩いていきます。
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天守台跡です。
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降りて本丸の周りをぐるっと歩いて見ます。
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本丸北側の谷へ行って見ます。橋が架かっているので渡ってみました。
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橋の途中から見た北側堀切。すごい絶壁なことがわかります。
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橋の途夕から見えた水の手展望台へ行って見ます。
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展望台からの光景。
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絶景でした。

さて、小諸城で有名な人物と言えば、何といっても仙石秀久でしょう。この人物ほど浮き沈みが激しく、かつ毀誉褒貶に富んだ武将と言うのも珍しいでしょう。何しろ、下克上で入れ替わりの激しい戦国時代で、一旦大名の身分から改易された後、再び大名に復帰したのですから、ある意味傑物と言えるかもしれませんが、相当個性の強い人物であったのは確かだと思います。

以下に仙石秀久の生涯をNet記事より転載します。
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1.出生~大名

1552年1月26日、斉藤氏に仕えていた豪族・仙石久盛の4男として美濃国加茂郡黒岩(現在の加茂郡坂祝町)で生まれる。しかし、兄弟が不幸にあったため急遽家督を継ぐことになる。
15歳の秀久は稲葉山城の戦いで落ちのびた後、信長に勇壮な相貌を気に入られ、黄金一錠を与えられたといわれている。
 信長公、秀久の容貌の勇壮なるを賞す「改選仙石家譜」
その後羽柴秀吉の配下として各地を転戦する。

1570年姉川の戦いで山崎新平を討ち取り、1574年1000石の一領主となる。
中国攻略に従軍してからも1578年に4000石、翌年に茶臼山城の城主へ。
着々と出世を続け1583年淡路洲本城主5万石の大名となる。
さらには1585年四国攻めの論功行賞により讃岐高松10万石に加増された。

例えるのも難であるが、1店長から数年で地方の統括を任されるようなもので、もはや給料が増えたというレベルではない。このあまりにも早い出世は後の悲劇につながることになる。

2.改易、そして「無」へ

1586年四国を平定した秀吉に従い、九州征伐の為の四国勢の軍監として従軍することになる。
十河存保や長宗我部元親・信親父子らの軍勢と共に九州に渡海し、豊後で島津家久と対峙する。
しかし四国攻めから間もない状態から四国勢は結束に乏しかった。加えて大友家からの援軍も少数に留まっていた。
秀久は秀吉からは本隊到着までは持久戦に徹するよう書状を受け取っていたが、互いに犬猿の仲である長宗我部親子と十河存保がそろって反対したにも関わらず両者の反対を押し切り先陣部隊だけでの攻勢を決定した。
しかし、1587年戸次川の戦いで大敗し、長宗我部信親・十河存保らが討死、軍勢も総崩れとなって退却した。

 四国へと真っ先に逃げ帰った秀久はこう記された。
「仙石は四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」(豊薩軍記)

 ルイス・フロイスはこの時の仙石軍の様子をこう記した。
「豊後国に跳梁している最悪の海賊や盗賊は仙石の家来や兵士に他ならない」(日本史)
「恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない輩であり、できる限り(略奪して)盗み取ること以外目がなかった」(日本史)

 それ以上に、諸侯を差し置いて、九州から四国・讃岐へ勝手に撤収するという醜態を見せ、これらの行状に秀吉は所領没収の上で高野山追放の処分を下した。

3.復帰

その後高野山だけでなく京都、大坂を転々としていたらしい。
1590年に小田原の役がはじまると故郷・美濃で浪人達を集め、徳川家康の推薦もあって陣借りとして参陣。
鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして合戦に参加したという逸話も残されており、「鈴鳴り武者」の異名をとったと伝えられる。
秀久は伊豆山中城攻めで『無』の馬印を背負い先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。その名声は箱根にある地名「仙石原」は秀久の武勇に由来するという説が存在する程である。
           仙石久秀1
その功績から秀吉からする信濃小諸に5万石を与えられ、大名として豊臣家臣に復帰した。

4.その後

 秀吉の死後、徳川家についた秀久は1600年の関が原の戦いで東軍として参戦。徳川秀忠の側近として上田城攻めに参加。遅参し、秀忠に対して激怒する家康への謝罪に努めた。この働きが後に秀忠に重用されるきっかけとなった。
 江戸時代になってからは信濃小諸藩の初代藩主となった。秀久の治世では佐久郡において農民がストライキを起こすなどあまり内政は上手くなかったらしい。しかし、笠取垰、小諸城及び城下町を現在のようにしたのは秀久の功績でもある。また、街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績を残している。

 1614年、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣にて5月6日に死去。享年63。

5.評価

以上の事から、戸次川の戦いでの結果から長宗我部ファン、十河ファンの敵だったり、これだけの失敗をして大名に復帰するなんて許せないなどアンチが多い人物である。
しかし、彼が秀吉~家康のもとで結果を出し続けてきたことは事実である。
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本当に山あり谷ありの人生を歩んだ仙石秀久ですが、所謂名将と言われるような風格はどうにも見当たらず、自分のことしか興味の無い器量の狭い人物に見えてしまいます。ただ、何かをやり遂げるときの瞬発力が頭抜けていて、全身に目立つ鈴を付けて合戦に参加するというあざといとも言える様なことをして、しかもそれでちゃんと戦功を立ててしまうのですから常人のレベルを超えた高い能力を持っていたことは間違いなさそうです。しかし、この”鈴鳴り武者”の仙石秀久と、味方の軍を残したまま九州から四国へ逃げ帰ったと言われる仙石秀久の人物像が全く重ならないのが本当に不思議です。本当に、この2人は同一人物なのでしょうか?
ただ、大名に返り咲いた後小諸藩での治世がうまく行かず農民が逃げ出すようなことをしながら、後で街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績を残すことなどをしているところに、その解答があるのかもしれません。つまり、仙石秀久という人物は、基本的に頭を使うより感情にしたがって思いつきで行動してしまうのだけれども、後で反省して自分がやった間違ったことを正すということを繰り返していたのかもしれません?

実は、”センゴク”というタイトルの仙石秀久をモデルにしたコミックがあるのだそうです。
      センゴク1
基本的に、史実に基づくというよりエンターテーメントに振った作品とのことですが、そのコミックの中での仙石秀久の描写は、以下のようになっているとのことで興味がわきました。

15歳で当時の平均身長を上回る171cmの体格を持つ青年。笑ったり照れたりするとダンゴ鼻になる。
恵まれた体格と生命力を持ち戦場ではかなりの強さを誇る(三方ヶ原の戦いでは武田兵相手に一人で立ち回れる程)。
表裏の無い真っ直ぐな性格で周囲からは「ゴンベ」「ゴン」「ゴン兄」と慕われている。
頭脳労働が苦手な脳筋でもあるが、野生の勘が鋭く、年齢と経験を重ねるにつれて大局の見方を身に付けていく。

今後、この作品の中で、戸次川の戦いでの大失敗~小田原の役での挽回が歴史考証を交えてどのように描かれているのかは興味があります。一度、この作品を読んで見たいですね。

続・東京お登りさんツアー(その③)

前回から、直ぐにUpする予定が、仕事でハマって随分遅くなってしまいました...。

今回は、東京お登りさんツアーで、オタクとして訪問した場所を紹介します。

1. ガルパン劇場版 極爆上映観賞(立川シネマシティ)
おそらく、ガルパン劇場版程、色々な上映方式(立川極爆上映、塚口爆音上映、4DX、ULTIRA上映、imm sound上映など)で上映された映画は無いと思われますが、この立川シネマシティでのスペシャル・ウーファーを使用した極爆上映こそが、多種にわたる上映方法の火付け役と言われるくらいガルパンファンにとっては有名なもので、それを上映する立川シネマシティはガルパンファンにとっては半ば聖地と化しているのかもしれません。何しろ、未だに週末は"立川詣で"と称して来館したガルパンファンによって立川シネマシティは満席になってしまうのですから。ですので、自分にとって最後となる、9回目のガルパン劇場版の映画館での観賞は、是非立川シネマシティの極爆上映観賞でトリを飾りたいと思っていたのです。

立川シネマシティでのガルパン劇場版極爆上映は、平日の昼間だというのにほぼ満席の盛況ぶりでした。下写真で、スクリーン両サイドに見えるスピーカー郡がスペシャルウーファーです。
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結論から言って立川極爆上映は4DXを超えた凄さでした。何しろ、着弾音再生時の音圧で、押し出された空気を風として体感できてしまうくらいの凄まじい迫力です。それなのに、耳に圧迫感を感じないところが実に不思議な感じで、以前体験したULTIRA上映とは全く違っていました。ULTIRA上映は、確かに音はクリアな感じがしたのですが、低音の迫力を増すために再生音量そのものを大きくし過ぎていて、その大音量のために頭が痛くなってしまったからです。おそらくULTIRA上映(imm sound上映も同様)の効果を100%引き出すためにはULTIRA上映に対応した音響録音で映画が製作される必要があり、通常の2ch録音されたガルパン劇場版では、2ch録音をいくらULTIRA systemで擬似的に立体音響にしてみても限界があるように感じました。それに比べて、極爆上映では、スペシャル・ウーファーを使って物理的に迫力をましているので、どんな録音方式の作品にも対応できてしまうところが強みですよね。
今後、このようなスペシャル音響再生システムを劇場側が備えてくれれば、自宅でのBlu-ray再生では得られない体験をしに映画館に足を運ぶ人も増えるのではないでしょうか。余談になってしまうのですが、”響け!ユーフォニアム劇場版”を極爆上映してくれれば、是非見に行きたいですね!

PS.祝! がルパン劇場版興業収益22億超え!!
Blu-Ray Box発売記念上映でついに興行収益が22億円を突破し、ガルパン劇場版は、劇場版まどかマギカ反逆の物語を抜いて、深夜アニメ映画の興行成績2位に躍り出ました。おめでとうございます!流石にラブライブの28億は抜けないでしょうが、公開開始から30週を経ても興行収入を伸ばし続けたアニメというのは今後なかなか出てこないでしょうね。さて、今後どこまでこの収益記録を伸ばし続けるのでしょうか。
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上図が示すように、ガルパン劇場版は、公開ダッシュ無しに、4DX上映と、Blu-Ray Box発売記念上映の三段ジャンプという異例の興行収益推移で、見事に22億超えを達成しました。しかし、興行収益の記録もすごいですが、この"Blu-Ray Box発売記念上映"というのも、本来ありえないものですよね。普通は、Blu-Ray Boxが発売されたら、上映は終了するものですから。本当に、このガルパン劇場版は、異例づくしの映画だったと思います。

2.秋葉原訪問
秋葉原を直接訪問するのは、もう十年ぶりくらいかもしれません(少なくとも、名古屋へ引っ越してからは一度も訪れたことがありませんでした)。しかし、その10年くらいの間に、秋葉原がすっかり変わってしまったことに本当に驚いてしましました。
秋葉原は、電気街として確かに昔から有名でしたが、ほんの15年前くらいまでは、その電気街を除くと何もないような、どちらかと言うと殺風景と言えるような街だったのですよね。ところが、今や駅の周辺には、秋葉原UDXやYodobashi camera Akiba館という大きなビルが建ち並び、駅前の広場にはAKB48 cafeやGundam cafeが並んで出店するという激変ぶりで、昔の殺風景な駅周辺部がすっかり垢抜けたオシャレなエリアに変わっていました。さらに驚いたのが、自分の中で秋葉原電脳街の中心地と思っていたLaox/Computer館がAKIBAカルチャーズZONEという別名称のビル変わってしまっていたことです。この変化は、そのAKIBAカルチャーズZONEという新しい名称が示すように、秋葉原が、昔のハードウェア中心の街から情報発信の街へ変化したことの象徴のように感じてしまいました。
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AKB48 cafeとGundam cafe.。
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その向こうにそびえ立つYodobashi Akiba館。本当に変わってしまったなぁ。

そして、何より驚いたのがLaox/Computer館がAKIBAカルチャーズZONEへ変わっていたこと。昔のLaox/Computer館の1Fは、Computer関係の巨大な書籍コーナーになっていて、プログラマーだったころの自分は、よくこの書籍コーナーへ通ったものです。
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その裏にツクモデンキがあるのは変わっていませんでしたが、その前の路地で、いろんな格好をしたメイドさんたちがビラ配りと客引きをしていたのは、やはり今の秋葉原っぽかったですね。
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ただ、昔から秋葉原に通っている人は覚えているかもしれませんが、この路地は、まだ、あのオウム真理教が存在していた頃、オウム信者が経営するマハーポーシャというPC/AT互換機の自社組立てブランドのビラを多くのオウム信者(もしくは雇われたバイトさん)がビラ配りをしていたのと同じ場所で、あの頃のオウム信者がメイドさんに変わってしまったのも時代の変化なのだなぁなどという変な感慨も感じてしまいました(ちょっと不謹慎)。

さて、いろいろと秋葉原の昔と今の違いを書いてみたのですが、今回の東京訪問で秋葉原へ寄ってみたのは、別に秋葉原の変化を実感しようなどと思ったからではなく、ちょっとしたアニオタ的な計画があったからです。
まぁ、計画というほど改まったものではないのですが、自分にとって、それはなかなか勇気がいる行為で、実行に移すまでたっぷりと一時間は逡巡してしましました。簡単に言ってしまえば、それは実際にメイド喫茶に入ってみるというだけのことのなのですが、とにかくこれが自分にとってはハードルが高かったのですよね。何しろどんな顔をして入店するべきなのか、また入店後はどんな会話をすればよいのか、そもそもどんなノリで過ごせば良いのかがまるで分からず、本当に悩んでしまったのです。
これが、一般の水商売のお店へ行くならば、どんな雰囲気でどんな会話をすれば良いのかはそれなりにわかっていますし、何よりお金を払えばそれなりにプロの接客を受けることを期待できますが(当然ピンキリがあるし、最悪ぼったくりもありますが)、メイド喫茶では、おそらく、客とメイドさんの双方で盛り上げるのが基本で、生来のヒッキー気質ゆえに、初めての人と無難に会話することが苦手な自分にとって、これはかなりキビシいハードルなのですよね。ただ、自分が好きなアニメ作品には当たり前のように登場するメイド喫茶には一度は入ってみたかったし、なんといってもあの伝説の魔法のおまじないはぜひ経験してみたかったのです。ですので、最後は、ここまできて入店しなかったら一生後悔すると念じまくって、自分を追い詰めたところでやっと入店できたのでした。やれやれ。

このメイド喫茶入店の前に、どのメイド喫茶に入店するべきか色々とリサーチをかけていたのですが、その結果秋葉原には以下の3店が老舗として存在し、それぞれ微妙に特色があることを見つけていました。(まぁ、特色といっても微妙らしいですが)
・@ほぉ~むカフェ
・メイドリーミン
・ぴなふぉあ

@ほぉ~むカフェは、「萌え文化」を、秋葉原に、そして日本に広めたの最初のメイド喫茶であるらしい。そして、また、この「萌え萌え~」だけではなく、ドリンクやフードメニューに「魔法のおまじない」を掛けたり、オムライスの上にお絵かきしたり、メイドとチェキを撮ったりなんていう文化も、ココが発祥とのこと。ただ、それだけに、いつも混雑していて、更に基本的には、非常にエンターテーメント性が高いメイド喫茶らしいので、ちょっと精神的圧迫度がキツそうな感じがして、今回はパスしました。

メイドリーミンは、東京だけでなく関西等など全国展開している最大手のメイド喫茶で、どうやら海外にも積極的にPRして、店内は外国人観光客も多いらしいとのこと。ただ、例の”魔法のおまじない”などは、個人席で1人の給仕のメイドさんがやるというより、ほかのメイドさんも一斉にやってきて店全体でやるようなところがあるらしい。更にチェキ(メイドさんとのツーショット写真)は、店の一角に舞台のようなところがあって、その上に乗ってやるらしい(これって、公開処刑ってやつなんじゃ...)?う~ん...
(更に、どうも、メニューに高額シャンパンなどを載せたりなどのキャバクラ的な営業をして金銭的なトラブルがあったなどの噂もあるとのこと。でも、これはあくまでNet上の噂です。)

ぴなふぉあは、以前映画化された”電車男”の舞台にもなったことで有名になったお店とのこと。前述の2つのメイド喫茶に比べれば展開規模はかなり小さいようです。その分、あまり商業的な感じもしないようですので(あくまで、Aiuto!がそのように推測しただけです)、今回ぴなふぉあへ行ってみることにしました。

ぴなふぉあは、秋葉原で3店舗展開をしていて、今回自分が選んだのは3号店です。
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階段横の看板。この看板の横に小さな階段が有り、そのビルの3Fがぴなふぉあでした。
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迷ったら負けなので、一気に階段を駆け上がり、ドアを開けて入店しました。無事、第一関門突破。でも、緊張していたので、定番の”お帰りなさいませ、ご主人様”と言われたかどうかを全く覚えていません...(不覚)。

店の中に通されると、長椅子の席に案内されました。う~ん、隣の席と近いなぁ。ここで、おまじないをされるのは、隣にまる聞こえで、恥ずかしいなぁなどと一瞬思いましたが、隣もご同類のはずだからまぁいいか。
メニューからは、カクテルとオムライスのセットを注文しました。もちろん、ケチャップで名前を書き入れることを忘れずにお願いしました。
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しまった、"Aiuto!"の綴りを間違えないように伝えることに気を取られて、続けて「~さんへ」を書く事を頼むのを忘れてしまった。でも、まぁいいか。結構上手く書いてもらいましたので。それにしても、誰が考えたのか、オムライスにケチャップで名前やメッセージを書き込むというのは、本当に幸せな感じがしていいもんだよなぁ。オムライスだけでもやさしい気分になるのに、そこにケチャップで書き込みを加えるとか、本当にもう最強ですよ。ちなみに、隣の缶バッチは、この文字を書いたメイドさんのオリジナル缶バッチとのこと。そして、食べ始めてから再度失敗に気がつきました。おまじない頼むの忘れた...。

そこで、近くにいたメイドさんに、例の”おまじない”について尋ねたところ、別メニューを頼む必要があるとのこと。一応、それを頼むと、おまじない+そのメイドさんのブロマイド+チェキができるらしい。何か、色々とお金がかかるなぁという感じでしたが(別に、チェキはいらないし)、まぁこういうところ(つまりサービスをお金で買っているところ)では、仕方がないことだし、ケチケチしても面白くありませんから、とにかくそのスペシャル・カクテルというものを注文してみました。以下が、そのスペシャルカクテル。
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右が、給仕してくれたメイドさんのブロマイド。そしてもちろん、美味しくなぁれのおまじない。一応、犬、猫、兎のどれかを選んで欲しいと言われたので、猫を選んで、一緒に唱和しました。"美味しくなぁれ!にゃん・にゃん・にゃん!!”(...とても他人にはお見せできない。まぁ本人は楽しんでいるのでほっといて下さいといったところです。)

さて、このぴなふぉあの雰囲気なのですが、自分が行ったのは頃日の夜遅くだったため、客層的には20代~40代のサラリーマンが大半で、思っていたより落ち着いた雰囲気で、自分にとっては助かりました。これがもし、よりエンターテーメントに振ったメイド喫茶に入店していたら、精神的にかなりキツかったでしょうね。ただ、ほとんどのお客さんは常連なのかもしれませんが、すごくメイドさんとの会話を楽しんでいたのが印象的でした。自分のような会話ベタには出来ない技で本当に大したものです。でも、見た目いいオッサンが若いメイドさんと楽しそうに話しているのを見ているのは、別に悪いものではありませんでした。どちらかというと、水商売の店で、酒を飲んでエロくなる同年輩より全然親しみを感じますから。あと、ほとんどのお客さんが連れをともなって来ていたというのがメイド喫茶を楽しむのには大きかったのかも。はっきり言って、お一人様で来ると間がもちません...。

でも、まぁ兎に角、一度は行ってみたいと思っていたメイド喫茶に行けて満足出来ました。おそらく、2回目の訪問はほぼ無い(汗;)と思いますが、ただ、秋葉原には、メイドさんが給仕するだけの正統派喫茶店もあるみたいですので、そこにはいつか行ってみるかもしれません。ほんと懲りないなぁ。ちなみに、チェキはやりましたよ。超寒い写真なので、もちろんBlogに掲載は絶対にありません。

その他に秋葉原で行った場所2箇所。
・秋葉原ガシャポン会館
秋葉原には、いたるところにガシャポン専門店がありました。その中でもこのガシャポン会館は一番大きなところでしたが、”会館”は大げさ過ぎです。ただの雑居ビルの1Fに店舗を構える店でした。
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ここには、自分の大好きな"コップのフチ子さん"のガシャポンもありましたが、もう少し数を増やして欲しかったですね。
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いつか自分の”フチ子”コレクションをBlogで紹介したいと思います。

ガシャポン会館の2階は店名を忘れてしまいましたが、アニメ・ゲームグッズ販売の店でしたので、ここで、はいふりのトートバックを現場での工具入れとして購入しました。(ハイスクール・フリートまだ1話も見れていません。ていうか、今期は迷い家(しかも3話まで)しか見れていません。)
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このグッズ店の3Fには、コスプレ店が入っていて、ユーフォの宇治北高校制服が展示してあったので、それを見てきました。本当に秋葉原はDeepだなぁ。
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・秋葉原UDXビル内アニメセンター
秋葉原駅の北西側、AKB48 cafeとGUNDAM cafeの対面にあるUDXビルの4Fに東京アニメセンターがあります。ここでは、2~3週おきに原画展等の展示会が開かれています。自分が行ったときは、"ToLOVEる-とらぶる-"の原画展をやっていましたが、自分はこの作品を見たことがなかったのでShopコーナーの方へ行って見ました。
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Shopコーナーには、自分の好きなP.A worksのコーナーがありました。
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何となく、以前P.A worksの公式Netショップで売り切れだった、SHIROBAKOのミニファンBook vol.1を記念として買ってしまいました。旅行先で荷物を増やしてしまうとか、何やっているんだ、自分...。

その他、色々な秋葉原の光景。
秋葉原駅南西側は、比較的自分の知っている秋葉原の面影があります。ラジオ会館も外見が少し変わったけれども、相変わらず同じところに立っています。
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小さな店も相変わらず残っています。
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このあたりもあまり変わっていなかったかな。
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その一方で、このような小さなイベントのようなことがあちらこちらで行われているのが、新しい秋葉原っぽかったですね。
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痛車も発見。
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今回、久しぶりに秋葉原を散策して見ましたが、つくづくそのディープさに感心してしまいました。ちょっとした聖地巡りをするよりも、よっぽど秋葉原をブラブラと散策したほうが非日常感を味わえるような気がします。この記事の冒頭で、殺風景だった秋葉原が、垢抜けて明るい街へ変わったと書きましたが、その明るさはもちろん普通とは違ったサブカル成分を多分に含んだ明るさで、世間一般にはマイナーなものとして片隅に追いやられているようなサブカルが、ここでは堂々とメインの売り物になっているわけですから、普段は肩身の狭い思いをしているオタクも、この街の中では伸び伸びと振舞うことが出来ます。誰に気兼ねすることなく自分の趣味に浸ることくらい気持ちいいことはありませんから、そりゃあ、オタクがこのワンダーランドに集まってくるのも道理と言うものです。
最近では、この街の特殊な活気に惹かれて、外国人観光客をはじめ色々な人が、秋葉原に集まって来るようになったと聞きますが、この街の活気を根っこの部分で支えているのは、間違いなく日本のオタク達でしょう。このようなオタク達によって支えられる秋葉原のような街は、まだ世界中どこを探しても無いでしょうから、それが実際に存在する日本は、やっぱり面白い国だなぁとしみじみ思ってしまいました。

秋葉原は、単なるコンピュータや家電などのハードウェアだけを売る街から情報の最先端を走る街へ変わることで、新たな発展を遂げましたが、それは、あまり経済や産業に直接関わらないサブカル的なものも面白がって熱中してしまうことを許すような文化的土壌を、日本が持っていたからこそ出来たことなのかもしれません。そして、この柔軟さこそが目に見えない日本の強みであり底力なのかもしれませんね。


PS. 【訃報】 冨田勲氏 死去
日本のシンセサイザー作曲家の先駆けであった冨田勲氏が先月の5/5に84歳で亡くなられました。
つい2か月前に、EL&Pのキース・エマーソン氏の訃報を聞いたばかりでしたので、同じくシンセサイザー奏者の冨田勲氏の訃報と、矢継ぎ早に自分が若い頃よく聴いていたアーティストの死に接することになり、ちょっとショックを受けてしまいました。
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自分が、初めて富田氏の音楽を聞いたのは、富田氏のセカンドアルバム”展覧会の絵”でした。当時学生だった自分は、英国のロックグループであるエマーソン・レイク・アンド・パーマー(EL&P)が好きで、そのEL&Pが演奏していた、ムソルグスキー作曲”展覧会の絵”のロックアレンジ曲をよく聴いていたのですが、その”展覧会の絵”つながりで、シンセサイザー・アレンジによる”展覧会の絵”とはどのようなものかと、FM放送を聞いてみたのがきっかけです。初めて聞いた富田サウンドの印象は鮮烈で、その時録音した富田版”展覧会の絵”を何度も繰り返し聞いたものです。

このEL&Pと冨田勲氏の間にはちょっとした逸話があって、日本人として初めて富田氏が米国のムーグ社からムーグ・シンセサイザーを個人輸入した時、税関の人がこれを楽器として認知してくれず、数ヶ月間の足止めを食らってしまい、結局、楽器として証明するためにムーグ社が送ってきたのは、ムーグシンセサイザーを演奏するEL&Pのキーボード奏者キースエマーソンの写真だったとのこと。なんともすごい逸話ですね。たぶん、以下のような写真だったのではないでしょうか。
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ムーグ・シンセサイザーを演奏するキース・エマーソン。

以下に、富田氏とEL&Pによる”展覧会の絵”を貼ってみます。

上は、富田氏による”展覧会の絵”からプロムナード。

EL&Pによる”展覧会の絵”からキエフの大門。

ムソルグスキーが作曲した”展覧会の絵”は、もともとピアノ曲でしたが、どうも、その独特の旋律が音楽家の創作心を刺激するらしく、色々なアーティストがアレンジに挑戦しています。一番有名なのは、ラヴェルによるオーケストレーション版でしょう。オリジナルのピアノ曲よりもこちらのほうが有名なくらい。でも自分は、このEL&Pと富田氏のアレンジ版が一番好きです。

富田氏は色々なTV番組の音楽も担当しましたが、その中で一番好きなのは、以下の"新日本紀行"のテーマです。幼い頃に聞いたこのテーマ曲は、本当に自分の耳に焼きついていて、今でも曲の細かい部分までよく覚えています。


富田氏は晩年の80歳の時に、初音ミクをフューチャリングしたイーハトーブ交響曲を作曲しています。このお歳で、最新のサブカルを導入してしまうところがすごいですね。


Wikiを開けば富田勲氏の業績は数え切れない程。そして、富田氏のシンセサイザー黎明期の偉業は、後世のアーティストたちに間違いなく影響を与えました。
心からご冥福をお祈りしますと共に、尽きない感謝の念を捧げたいと思います。

続・東京お登りさんツアー(その②)

前回の、続・東京お登りさんツアー(その①)からの続きです。

1. 今回東京で訪問した神社
今回の東京訪問では、日枝神社及び根津神社、そして自分の若い頃に訪れたことがある神田明神及びの神社を参拝してきました。

1) 日枝神社
東京永田町の国会議事堂の直ぐ近くという、日本政治の中心と言えるような場所に日枝神社は立っています。
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由来は太田道灌が江戸城を築くにあたり、江戸城の裏鬼門(南西)封じのために、川越の山王社を勧請したのが始まりとされています。主祭神は、山の神様「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が祀られており、江戸時代には、徳川将軍家御用達の氏神・江戸城の鎮守で、鬼門(北東)を護る神田明神と対をなしています。かつて天下祭と呼ばれた、日本三大祭・江戸三大祭の「山王祭」が有名です。

日枝神社は、政財界から絶大な崇敬を受ける神社で、千代田区・中央区の広範囲を氏子地域に持ち、大手企業の社用参拝も圧倒的とのことです。実際、自分が参拝したのは平日の昼頃でしたが、スーツを着こなし背筋をビシッと伸ばして見ていて惚れ惚れとするような作法で参拝する方々が何人もいらっしゃいました。
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日枝神社の社殿には、ほかの神社と大きく違うところがあり、それは狛犬ではなく「猿」が置かれていることです。大山咋神が山の神ということもあり、同じく山の守り神とも呼ばれる猿が使いとして重宝されていたからといわれています。「さる」という音から「勝る(まさる)」「魔が去る(まがさる)」から、勝運の神や魔除けの神と考え、また、音読みの「えん」という音から、猿が「縁(えん)」を運んできてくれると考え、商売繁盛や縁結びを祈願する方もいらっしゃるそうです。
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本殿に向かって左がメスの猿です。子ざるを抱いていて、子宝や安産のご利益があると言われています。
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右にいるのがオスの猿です。本来、猿は山の守り神で、木や生き物を生み出し育てたと伝えられています。それにあやかって物事を生み出す、発展させる「商売繁盛」や「社運隆昌」にご利益があると言われているそうです。

末社は、左に「山王稲荷神社」右に「猿田彦神社」の2社が並びます。「猿田彦神社」は現在改修中で参拝することが出来ませんでしたが、今回自分が見たかったのは、「山王稲荷神社」の鳥居でした。
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距離は短いけれども、見事な鳥居のトンネルです。国会議事堂の近くで、このような光景が見られるのは何とも不思議な感じがしますよね!

2) 根津神社
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文京区根津に位置するこの「根津神社」の歴史は古く、今から1900年ほど前に日本武尊が千駄木に創祀した後、江戸時代五代将軍徳川綱吉が現在の場所へと移しました。主祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)、大山咋命(オオヤマクイノミコト)、誉田別命(ホンダワケノミコト)。
本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・透塀・楼門は1706年のものがそのまま現存していおり、国の指定重要文化財として認定されています。
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しかし、今回自分が見たかったのは、摂末社である「乙女稲荷神社」に続く千本鳥居です。自分は本当にこの鳥居のトンネルが好きなんですよね。
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都内とは思えないような厳かな雰囲気が実に良いですね!
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たくさんの鳥居が立ち並んでいる途中にあるのが「乙女稲荷神社」です。なんともロマンチックな名称ですが、社殿の奥にある風穴を女性の象徴として捉えたことから「乙女」という名前がついたとのこと。なるほど...。でもこの名称から、恋愛運の神様として女性参拝客が後を絶たないようです。

しかし、根津神社で有名なのは、何といってもつつじでしょう。境内のつつじヶ岡では、約100種3000株のつつじが花をつけるのですが、4月~5月の見ごろには「文京つつじまつり」が開催され、祭り開催期間のみ普段は閉鎖されているつつじ苑に入苑して散策を楽しむことが出来ます。
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今回の参拝では、ツツジの時期を逃してしまいましたが、次回は是非、上写真のような咲き誇るつつじの間に埋もれるようにして立つ千本鳥居の光景を見てみたいですね。(上写真は他社様Webより転載させて頂きました)

3) 神田明神
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神田明神は天平2年(西暦730年)に創建され、江戸城の表鬼門除けに鎮座する、江戸・東京の総鎮守として古くから親しまれてきました。
現在も、神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神であり、企業参拝も多く行われています。また、江戸三大祭・日本三大祭の神田祭が有名で、2年に一度、5月上旬に6日間にわたって行われ、江戸の風物詩として多くの人で賑わいます。

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神田明神の大鳥居をくぐると正面に見えてくるのが「随神門」。総檜造りで朱塗りの立派な門で、欄間には、中国の古代天文学に基づき北極星を中心として四方に四神【青龍(東)・白虎(西)・朱雀(南)・玄武(北)】が彫刻されています。
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御祭神は、以下の三神となっていますが、平将門命が実質主祭神と言われています。

 一之宮:大己貴命(おおなむちのみこと、出雲大社の大国主命の若年名であり、後に大黒天と習合。所謂だいこく様です)
 二之宮:少彦名命(すくなびこなのみこと、大己貴命の国作りのペア神であり、後にえびす神と習合。所謂えびす様です)
 三之宮:平将門命(たいらのまさかどのみこと)

平将門は、京都の中央政権へ反旗を翻し、関東の独立化を図ろうとした最初の武将です。天皇に弓を引いた”朝敵”ですから、三之宮扱いですが、武士による治世を行おうとした最初の武将として、太田道灌や北条氏など関東の名だたる武将たちから手厚く崇敬されてきました。
江戸に幕府を開府した徳川家康は、石田光成との天下分け目の関が原の戦いに臨んだ際、神田明神の神職に戦勝祈祷をお願いしたところ、見事に勝利し、さらに勝利した日が九月十五日という神田祭の日にあたったということで、家康は非常に喜び、江戸開府以後、神田明神は江戸幕府に厚く崇敬されるようになり「江戸総鎮守」として称えられるようになったそうです。このように、確かに徳川家の庇護もありましたが、それだけでなく、例えば、徳川(関東方)に対して一矢報いた真田幸村が大阪で絶大な人気を誇ったように、上方(京都)の支配から脱して関東の独立を唱えた平将門は、江戸の人々にとっては、関東の守り神として人気が高かったのは間違いなかったとことと思います。

この平将門について、神田明神に絡んだ以下の伝説が有名です。
・神田明神と将門の首塚
朝廷に反旗を翻した将門は、藤原秀郷と平貞盛に朝敵として討たれ、その首が京都に運ばれ晒されてしまうのですが、その首が五体を探すために関東目指して飛び去り、途中の都千代田区大手町付近に力尽きて落ちたと言われる伝説があります。その首が落ちたとされる場所に「将門の首塚」が建てられ、この将門を鎮めるため、1309年に将門を祀ったのが、当時首塚近くにあった神田明神であったとのことです。それゆえ、お参りする時は、神田明神を先にお参りしてから、首塚にお参りするのが良いと言われています。

・神田明神vs成田山新勝寺
将門を討とうとしている藤原秀郷を支援するため、僧寛明は、下総国公津ヶ原に不動明王を安置して護摩祈祷を行い、将門が討たれた後に、この不動明王を安置した不動堂を建立して祀りました。これが現在の成田山新勝寺の開山起源です。それゆえ、1000年以上たった現在でも将門と家来の子孫や神田明神の氏子たちは、成田山に詣でると将門の加護を受けられないという伝承で、参詣しない人が多いとのことです。

また、さらに藤原秀郷の子孫が苗字に“藤”の字が入ること多いらしく、苗字に”藤”が入った姓を持つ一族や、特に藤原の直系である“佐藤”は、もっとも将門の怨霊の祟り受けるなどという噂もあるとのこと。でも、流石に噂もここまでいくと行き過ぎかもしれませんね。

あと、実は、神田明神を参拝したときは全く知らなかったのですが、この神田明神は”ラブライブ”の聖地として有名なのだそうです。
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そして、神田明神の痛絵馬はかなり有名らしい。本当に全く気がつきませんでした。
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何と、神田明神の方でも、ラブライブ専用絵馬を用意して売り出しているとのこと。
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でも、自分がオタだから言うのではありませんが、こういう時代に合わせて神社側が、参拝客が欲しいと思えるものを取り揃えようとしてくれている姿勢は、凄く前向きで嬉しく感じました。時代が変わって、参拝の表現の仕方が、時代に合わせて変わっていったとしても、参拝者が神社に参拝しに行こうという気持ちを持ち続けるが限り、参拝者の神様に対する畏敬の念は変わらないと思います。そして、この新しいものと古いものが混在しながら、それを次代に続く伝統として引き継いで行っているところが日本の魅力なのだと思います。

ラブライブの痛絵馬以外に、この時代に合わせた新しいものとして、神田明神は、以下のようなお守りも発売しているとのこと。
・IT情報安全守護
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秋葉原の総氏神らしいお守りですね!システムが安全に稼働することを願うIT企業の人に人気だそうですよ。すばらしい!

・しごとのおまもり
仕事のお守り2しごとのおまもり1
そして、上は何と、大国様の縁結びの御守り、IT情報安全守護、名刺入れの3点がセットになったタイプのお守りです。
こ、これは欲しい...

自分は、今年中にもう一度東京へ行くつもりですが、そのときは、必ずこのお守りを購入するつもりです!

今回、この神田明神は、進化する神社として、本当に感服しました。流石、日本の中心、東京にある神社と言う感じです。一度、初詣にも行って見たいと、一瞬考えましたが、Netで調べて見たところ、とんでもない数のラブライバーが押し寄せて大変なことになっているらしいので止めました。まぁ、同じアニオタとして一言。一般の参詣客の迷惑になって、アニメに偏見を持つ人を増やすようなマネだけはしないでください...

・甘味処「天野屋」
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神田明神の鳥居の近くにある甘味処で、創業は何と江戸後期の弘化三年(1846)とのこと。
内部は、このようなレトロですごく良い雰囲気です。
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ここで、江戸の庶民にも愛された「天神甘酒」を飲みました。お茶受けは、自家製味噌で、お店の地下6メートルにある天然の土室(むろ)で米糀を発酵して作ったものとのこと。
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4) 湯島聖堂
神田明神から歩いて数分のところに、湯島聖堂はあります。
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自分はまだ若かった頃、古本街へ行った帰りに、何度かこの湯島聖堂に立ち寄ったことがあります。その当時は、ここがどういうところかなどということには全く興味が無く、ただお墓のように静かで、本が読みやすいなぁと思って石段に座り、買ってきた本を読んだりしていました。懐かしいですね。

1690年(元禄3年)徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、林羅山が私邸内(現在の上野恩賜公園)に建てた先聖殿に代わる孔子廟を造り徳川綱吉がこれを「大成殿」と改称。それに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶようになったとのこと。その後林家から離れ幕府官立の昌平坂学問所「昌平黌」(しょうへいこう)とも呼ばれ維新政府に変わった後は、東京大学、筑波大学、御茶ノ水大学の源流ともなった学問教育発祥の地となりました。

昭和10年(1935年)に、鉄筋コンクリート造りで再建され、昭和61年度(1986年)からの文化庁による保存修理工事により、現在の姿になったとのこと。今では、受験の神様として、多くの学生が訪れているようです。

聖橋を渡ったところで、下に向かう階段を降りていくと湯島聖堂の敷地内に入っていきます。都会とは思えないほど静かな場所です。
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湯島聖堂の入り口である入徳門。
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階段を上り、杏壇門を潜ると大成殿に対面します。
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正面に掲げてある「大成殿」の扁額は綱吉自筆で、自ら経義を講じたほどでもあったとのこと。
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大成殿を出て、仰高門の方へ歩いていくと、途中で、大きな孔子像を見ることが出来ます。
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これは、世界最大の孔子像で、1975年に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたものとのこと。かなりリアルな感じの像です。

2.江戸東京博物館
江戸時代の風物を紹介する博物館として人気が高いとのことでしたので、行って来ました。
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中に入ると、いきなり原寸幅の「日本橋」の復元とご対面です。
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この復元「日本橋」から、原寸大の歌舞伎小屋を見下ろすことが出来ます。
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先に進むと、色々なジオラマ模型があり、その精巧な出来に驚いてしまいました。
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ただ、自分としては、もう少し体系的な江戸の発展の仕方の説明が見たかったのですよね。ただ、あまり堅苦しすぎると、見学者が退屈するので、精巧なジオラマを作って眼を引くやり方は有りなのですが...

あと、実はもう一つ、出来れば吉原の生活についての展示があれば見たかったのですよね。それは、以前読んだ、島田荘子氏の”暗闇団子”という花魁と侍の悲恋を描いた短編時代小説が、実に幻想的ですごく印象に残っていたからです。

ただ、もちろんそこで働く女性たちの多くは借金のカタとして吉原に身を置く事となり、その殆どが悲惨な生涯を送ったということは重々理解していて、軽々に語ることが出来ないことも承知しています。

しかし、花魁との逢瀬を行うためのしきたり(引き手茶屋での顔見せや花魁道中など)や、吉原で花見を楽しむために、咲いた桜を持ってきて一斉に植えた後、散る前に一斉に引っこ抜くなどの演出は、もはや文化と言っていいほどのレベルのもので、このまま無かったことにしてしまうのは、逆に正直ではないと思うのです。

ただ、中学生や高校生の見学団体も来ていたので、やはり風俗関係の展示は難しそうです。

3.東京での食事
今回の旅行中の東京での食事は、自分が若い頃よく食べていたカレーをもう一度食べて見るということをしてみました。

・神田神保町 エチオピアのカレー
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このカレーを古本街帰りで食べたのは、大学を卒業して間もなくの頃だったような気がします。とにかく、その味は自分にとって未知の味と言って良いほど強烈なもので、大げさかもしれませんが、初めて食べたときには、ちょっと呆然としてしまったことを覚えています。

神田神保町は、昔から有名カレー店がひしめいていて、自分は古本街へ行くたびにカレーを食べていたのですが、例えばスマトラカレーの共栄堂や、欧風カレーのボンディなどは、確かにおいしいのですが、その味は自分の知っている味の延長線上にあるものでした。しかし、このエチオピアのカレーは基本的にはインドカレーなのですが、クローブの香りが強烈なことと、その他のスパイスの味も鋭利で、しかしそれらが喧嘩もせずに絶妙にブレンドされているという感じで、自分が知っている普通のインドカレーとは一線を画した味でした。

まず、付け合せに蒸したジャガイモが出てきます。
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野菜チキンカレーの辛口、ルー1.5倍Version。
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最後にアイスが出てきます。
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東京を離れて10年以上経つので、10年以上振りに食べたエチオピアのカレーですがやはり美味しかったですね。恐らく、現在は神保町にもっとカレー店が出来てそれぞれ味を競い合っているのだろうと思いますが、10年経った今でも相変わらずの繁盛振りで嬉しかったです。今後も、神保町へ来た際は是非寄って見たいですね。

・武蔵小金井 カレーのプーさん
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エチオピアのカレーを食べて以来、ネットや本でインドカレーで美味しいと言われる店のカレーを調べては食べてということをしていたときに見つけたカレー屋さん。行って見て驚いたのは、店の外に行列が出来ていたことです。当時はまだ、インドカレーはあまり一般的でなく、有名店と呼ばれる店に行っても並ばず食べれたものでした。ですから、この行列を見たときには、否が応にも期待が高まったのですが、実際のカレーの味は、その自分の期待を遥かに超えるものでした。ここのカレーの特徴は、何といってもクローブの味の強烈さです(エチオピアのカレーよりも更に強い)。そのクローブと、小麦粉を使わず、野菜を煮込むことによって出来たとろみからくる野菜の甘さが交じり合って、何ともいえない旨みを作り出しています。
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野菜カレー辛さ普通。大きさは並を頼んだのですが、他の店の大盛りくらいの量があるので、小食の人はプチを頼んだ方が良いかもしれません。素揚げされた野菜がたっぷりとカレーの上に乗せられ、そのきれいな彩りが食欲をそそります。
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食後に、自家製アイスが出てきます。これも、大変美味しいです。

この店にも10年振りくらいに訪れましたが、店が改築されて、広さも2倍くらいになっていたので、一瞬、店がわからなくなってしまうくらい店の外観は変わっていました。それでも、カレーの味のほうは相変わらず美味しかったですね。個人的には、自分が今まで食べてきたカレーの中で断トツ一位のカレーです。ただ、ものすごく味にクセ(強烈なクローブの香り)があるので、全ての人にお勧めとは行かないかもしれません。

次回は、立川シネマシティのガルパン極爆上映と秋葉原について書くつもりです。

続・東京お登りさんツアー(その①)

前回の暫定記事をUpして以来、かなりの期間が空いてしまったのですが、実は先週代休を取って旅行している間に、現場で装置に大きなトラブルが起きて、同僚に土日出勤で対応してもらうという事態が起きてしまい、週明け後もその残件に追われて、全くブログをUpする時間が取れなかったのでした。でも、何とかその残件処理も終了し、明日土曜日は出勤しなければならない代わりに、本日は早く帰れたので、1週間ぶりにやっと旅行の記事をUpしたいと思います。ただ、全部まとめて書こうとするとまた先延ばしになってしまいそうなので、今回は細切れにUpしていきたいと思っています。

続・東京お登りさんツアー(その①)

1. 築地競り見学及び築地場内/場外市場巡り
1)築地競り見学
 今から約2ヶ月ほど前に、ゆゆ式のファンイベント参加に引っ掛けて、定番の浅草寺,東京スカイツリーと共に築地市場見学というベタな観光地巡りをお登りさん気分で実行したのですが、この築地市場の競り見学だけは、公式ホームページ記載の5:00amに築地市場の受付へ行ったにもかかわらず、既に満席で入場できず空振りで終わってしまいました(この時、係りの人から2:30am頃には満席終了になることを教えられました)。ですので、今回の競り見学は、その時のリベンジとして、今度こそ空振りに終わらないよう、徹夜で並ぶという気合の入ったもので望みました。

さて、受付前に徹夜で並んでいると、2:00am過ぎには見学希望者が60人に達し、受付内部へ通されました。そこで渡された見学希望者を示す蛍光色の上着を着ると、競り見学が始まる5:50amまで待つことになります。受付内部に通された後も、次々と見学希望者が入ってきて120名で締切となりました。自分以外は、おそらく全員が外国人です。しかし、まさかここまで日本人がいないとは思っていませんでした。
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競りが開始される時間になると、競り会場に案内され、約30分間、マグロの競りを見学しました。
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競り前にマグロをチェックする業者さん。尾ひれの部分が切られており、その切り口でマグロのランクを判断するらしい?
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競りの場面。独特の競り用語で進められるので、実際の売買の内容はさっぱりわかりません。

この競りのシーンというものは、実は日本人ならTVで何回か見ているものなので、自分にとってはものすごく新鮮という程のものではありませんでした(TVでは独特のダミ声で行っていたように記憶していたのですが、実際の競りは大きな声でしたが、普通の声で粛々と事務的に行っているように見えたので、余計普通に見えたのかもしれません。業者同士で競り合ったら雰囲気が変わったかもしれませんが)。ただ、やはりTVで見るのとは違った現場の臨場感は間違いなくありましたから、実際に見ることが出来たのは良い経験だったと思っています。特に、今年の11月には豊洲へ移ることになっているとのことなので、”見納め”として、記録的な意味もあるように感じました。
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さて、競り見学のあとは朝食として場内食事処で寿司でも食べようかと思ったのですが、有名店である寿司大と大和寿司は長蛇の列でしたので、今回は別の寿司屋へ行ってみることにしました。
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寿司大の超絶待ち列。平日の早朝にも関わらず、100名以上並んでいました。
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大和寿司の待ち列。こちらも寿司大に負けず劣らずの待ち列でした。

上記2店の次くらいに人気の鮨文。しかし、ここは写真撮影禁止とのことでパスしました。入口の戸にも、何やら色々な禁止事項が書かれた小さな張り紙が貼ってあり、ちょっと面倒くさそうな圧迫感を感じてしまいました。
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結局、Net上で”隠れた名店”と書かれていた”おかめ寿司”へ行ってみることにしました。
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お任せを頼んでみると、まず、最初の2貫は、中トロとエンガワ?が出てきました。
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おかめ寿司では、お任せのセットを頼むと、最後に2貫好きな握りを追加で頼むことができます。
自分は、中トロの握りとウニを頼んでみました。
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実際食べてみた感想としては、まぁ普通といった感じです。ただ、それは”大和寿司”と比べた印象で、その比較さえなければ、美味しいお店なのだと思います。ただ、築地場内には、多数の寿司屋がありますので、どうしても他店と比較されてしまうのが厳しいところですね。

その他、海鮮丼の店もありました。特に2軒並んで出店している海鮮丼のお店は、互いに競い合っている感じがして面白いですね。次に来るときは、このお店で食べてみたいと思いました。
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2)波除稲荷神社
築地市場の入り口を出た直ぐそばに立っている波除稲荷神社に参拝をしてきました。自分が参拝している間にも次々と人が訪れ、地元の方々に篤く信仰されている神社であることを実感できました。
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主祭神は稲荷神社だけあって倉稲魂命(うがのみたまのみこと)です。江戸時代の頃、埋め立て工事が波の荒いせいで築地周辺で遅れていたのを、漂着した御神体祀ったところ波風がおさまり、築地の埋め立て工事は無事に終了したというのが由来で、それ以降、約350年間、「波除稲荷神社」は、災難を“除”け“波”を乗り切る御神徳があるとして、地元から厚い信仰を集め続けています。
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波除稲荷神社には、雄雌の2体の「天井大獅子」と「お歯黒獅子」という日本最大の獅子頭が奉納されています。6月の「つきじ獅子祭」では、これらが、神輿のように担がれますが、「お歯黒獅子」の担ぎ手は女性限定というところが面白いですね。

「お歯黒獅子」の横には、食品関係の協会や商店・個人により建立された塚が、ずらりと並んでいます。
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玉子塚にすし塚。いかにも築地らしいですね。
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海老塚に鮟鱇(あんこう)塚と活魚塚。「海老塚」は、「東天会てんぷら料理協同組合」と「海老の大丸」によりつくられたものだそうです。
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おきつね様に末社。末社は、天照大神、大国主命、少彦名命、天日鷲命の四神を祀っているとのことです。

波除稲荷神社は、築地市場が豊洲に移転してもこの地に留まりますので、残された場外市場の守り神様として、これからも信仰を寄せられ続けられるでしょう。

3)魚河岸水神社遥拝所
魚河岸水神社遥拝所は、築地市場内の魚河岸横丁の食品街の入口側手前に位置します。
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魚河岸水神社は、天正18年(1590)徳川家康の江戸入府とともに移住してきた摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命」を祀った「大市場交易神」がはじまりとされています。
明治34年には神田神社の境内に「水神社」本殿が建立され、日本橋魚市場は関東大震災以後に築地に移転し、現在地に遥拝所が建立されました。以来、築地魚市場の守護神として「水神さま」と称され、魚河岸会の方々によって大切に守られています。
今年の11月に築地が豊洲へ写る際、この遥拝所も一緒に移転するとのことです。

4)場外市場の厚焼玉子串
場外市場をブラブラ歩いていると、なんとなく買ってしまうのが厚焼玉子串です。場外市場のいたるところに厚焼玉子のお店があって、価格も100円程度とお値打ちな感じがするので、ついつい買ってしまいます。
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厚焼玉子を実演で作っている店もありました。
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大根おろしのトッピングを選んでみました。

5)第五福竜丸の原爆マグロのプレート
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以下、wikiより。
1954年(昭和29年)にビキニ環礁での米国の水爆実験(キャッスル作戦ブラボー実験)により被曝した、第五福竜丸の水揚げ水産物であるマグロやヨシキリザメが同年3月15日築地市場へ入荷、これらは強い放射性物質を有し市場は混乱状態に。セリは中断され、残った水産物も軒並み相場は値つかずとなった。行政は被曝水産物を場内の地中に埋めるよう指示し、埋めた地点に「原爆マグロ」の塚を建立、現世にその災禍を伝えている(2006年現在、市場再整備等により一時的に夢の島第五福竜丸展示館に移設)。現在は市場の外壁に記念プレートが掲げられている。通行の支障を考慮してプレートになったという。
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こういう歴史も語り継いでいかなければならないものだと思います。築地が豊洲に移転された後も、何とかこのプレートを残して欲しいですね。

3. 東京での宿泊 ゲストハウス「グリッズ(GRIDS)」
今回は宿泊にかかるコストを抑えるために、秋葉原にあるゲストハウス「グリッズ(GRIDS)」を利用しました。
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このゲストハウスは非常に新しくて良い雰囲気でした。通常ゲストハウスは、外国人の利用者は多いのですが、ここはでは半分の利用者が日本人なので、言葉の問題で躊躇してしまう人もかなり使いやすいと思います(特に、サラリーマン風の人も利用していたのが印象的でした。ゲストハウスの宿泊者は大抵、外国人もしくは学生さんなので)。

また、ゲストハウスでは、大部屋に2段ベッドを置くドミトリー式のところが多いのですが、ここは下の写真が示すようにカプセルホテル形式でしたからプライバシーもある程度保てます(まぁ、”ある程度”ですが)。
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1Fのラウンジは、夜はバー、朝はカフェになっているようで、出発前にここで朝食を取りましたが、結構美味しかったです(特に、スープは本格的でした)。
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東京の秋葉原駅から徒歩十分のロケーションにて、素泊まり1泊\3,100円はなかなかコストパフォーマンスに優れたお値打ち価格ですので、お勧めですよ!

次回は、東京で巡ったその他の神社について書いてみたいと思います。

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