Aiuto!の穴

≫お城訪問

管理職研修参加及び100名城巡り(明石城+α)

1.管理職研修参加
また、早くも前回の更新から一週間近く経ってしまいました。現場仕事が続くと、時間が経つのがやたらと早く感じてしまいます。でも、そんな現場作業も先週殆ど終わり、来週からはもう少し落ち着いた仕事が出来そうです。しかし、この現場作業の終了が、以前から予定されていた管理職研修のスケジュールとガッチリ合ってしまい、今週末の金曜、土曜と兵庫県で開催された自分の勤める会社の管理職研修に参加してきました。

IMG_2265.jpg
管理職研修が行われたホテル。
IMG_2273.jpg
窓から見える明石大橋の景色が素晴らしかったです。

以前の記事で、営業会議に参加した記事でも書いたことがあるのですが、自分の立場は商社の中ではちょっと特殊で、装置の据付管理やメンテナンスなどの作業を客先に常駐して行うもので、商社の営業活動システムの中には属さない”一人親方”のような立場で仕事をしています。ですので、会社のシステムの中での管理職として自分が振舞うことはありません。但し、自分の年齢や、それまでの仕事の実績と経験から管理職としての役職が与えられていて、実は今回参加した40名近い管理職の中で、自分が一番高い役職になってしまっていたため、不参加で済ますと言うわけには行きませんでした。

ただ、やはり管理職というのは、その会社のシステム体系に乗ってこそ意味を持つものですから、その体系からはみ出している自分にとっては場違い感が半端でなかったのは間違いありません。ただ、今回、自分より歳の若い管理職の方々のやる気とパワーには素直に感心してしまったのも確かなことでした。

自分にとって現在の会社は3社目(正確に言うと4社目)なのですが、最初の会社は某大手電気メーカーT社の100%出資子会社で、課長以上は親会社から出向してくる人が管理職になるのが当たり前の会社でした(今も同じかどうかは分かりませんが)。

2番目の会社は、半導体関係の商社でしたが、それぞれの営業マンが一国一城の主と言っていいような個人商店の集まりで、会社としてのシステムは殆ど機能していない状態でした。というよりも、社長のお気に入り部長が好きに振る舞い、他の実力ある営業は、それに逆らわずに合わせつつ、自分のやりたいように行っているという、何ともすごい雰囲気の会社でした。(ちなみに、自分は最初、この商社の100%出資の工場に縁があって転職したのですが、この工場というのが、工員同士が工場内で殴り合いの喧嘩をして辞める人が続出するは、工場長が従業員を募集するためにリクルートに行ってくると言って工場を出て行ったきり、机の上のコーヒーカップなど全てを残したまま蒸発してしまったりするという、とんでもない会社でした。しかも、これはまだまだほんの氷山の一角で、これ以上の洒落にならないようなことがうんざりするほど多く起きたので、頭にきた自分がこの工場に辞表を出したところ、懇意にしていた親会社である商社の営業部長からの誘いがあり、その工場の親会社に転職したという経緯がありました。この工場を含めると自分の転職は4回になります。)

上記の会社に比べれば、現在の会社は組織がしっかりしていますし、前の会社と違って、現在の会社では同僚がお互いに敬意を持って接しているところが、何よりも良いと感じています。前の会社では、これが徹底して欠けていて、雰囲気が本当に良くなかったのです。現在の仕事が自分にとって合っているかと言うと、合っていないと言わざろう得ませんが、前の会社よりも経済的にも精神的にも安定感が2倍増しくらいになりましたのでやはり、この会社で働くことが出来たのは感謝すべきことなのでしょう(逆に、仕事の内容ならば2番目の会社の方が、設計業務がありましたので現在の会社より合っていた言えます。ただ、給料を含めてあの会社で自分が働き続けるのは経済的・感情的に無理でした)。

自分は、人が会社に所属して、社会の経済活動に参加することはとても大事だと思っています。それは、自分がオタクであることを自覚してから更に顕著になりました。自分のような、他人とのコミュニケーションが苦手な人間が世間で普通に生きていくには、日本が持っているインフラが絶対に必要だからです。こんなに一人で生きていくのに優しい環境が整えられている国は、世界でも日本だけでしょう(ただ、現在のインフラを必要としているのは、自分だけではなく殆どの日本人もそうなのではないでしょうか)。この環境を維持するためには、出来るだけ多くの人に日本の経済活動に参加してもらう必要があると思うのですが、もちろんこの経済活動には個人でも参加できますが、会社と言う集団に属したほうが一人より大きな力が出せますし、会社という集団の中で他人から常に刺激を受けたほうがモチベーションを維持するのは容易だと思うのです(もちろん、ブラック企業で働くことなど論外ですが)。そして、この会社と言う集団の中で、自分は年齢的にも管理職として振舞うことを求められるようになっているのですが、現在の会社のシステムは自分の仕事と殆どリンクしていないところが自分でも残念に思うところです。う~ん...

しかし、最近、ほぼ新卒の社員が自分の下に配属されたので、彼に対する教育が、自分にとって現在出来うる管理職としての役割と言えるかもしれません。今まで自分の部署は、既に経験を持った技術者が中途採用で同僚となり、各人それぞれが異なる現場を持って、自分と同じように一人親方のように働いていたのですが、今回はまっさらな新人君です。彼には、出来るだけ多くのことを教えて、独り立ちの手伝いをしていきたいと思っています。


2.100名城巡り(明石城訪問+α)
1) 明石城
研修は兵庫県の舞子で行われたのですが、その2つ先の駅が明石でしたので、研修後に名古屋に帰る前に明石城へ寄って来ました。明石城はJR明石駅の真ん前にあり、JR線の駅のホームから明石城の象徴である巽櫓と未申櫓を見ることができます。

・明石城の縄張り及び歴史
城の様子が分かりやすいように、以下に余湖様のホームページから頂いた明石城の俯瞰図を貼って見ます。
  明石城俯瞰図
城は北側を剛の池と桜池を天然の堀として取り入れ、南側を石垣で固めた構造を持っています。
本丸は3重櫓4基を隅に配置して防御を固め、西側にある二の丸とは堀切で分けられていました。本丸には天守台があり、五重の天守が建てられる予定でしたが、幕府に気を使い最後まで建てられなかったとのことです。
現在、本丸の南側及び西側は公園やグランドとして整備されてしまいましたが、本丸や二の丸の石垣は駅前にも拘らず当時の遺構を残し、よく面影を保っています。4基あった三重櫓で現存しているのは巽櫓と未申櫓だけとなってしまっていますが、いずれも国の重要文化財に指定されています。

明石城は、小笠原忠真が大坂の陣の戦功によって元和3年(1617年)、明石10万石を拝領して、信濃からこの地に転封して来た時、新城を築くのにふさわしい場所として、明石の地に築城されたものです。本丸のある台地は「人丸山」とも呼ばれ、この部分は平地に面する高台で眺望がとても良くて築城する場所として向いていたのに加えて、明石は海も近くかつ街道にも面しており、海陸の交通の要衝を押さえる地点でもありました。

築城後、寛永10年(1633年)には松平康直、寛永16年に大久保忠隣、慶安2年(1649年)には松平忠国、延宝7年(1679年)には本多政利が入部、といった具合で城主はめまぐるしく変遷します。しかし、天和2年(1682年)に松平直明が入部すると、以後は松平氏が10代続いて明治維新を迎えることになりました。

・明石城訪問
駅の改札を出て、道の対面にある大手門を通り抜けると、先ほど駅のホームから見えた巽櫓と未申櫓に対面します。
IMG_2277.jpgIMG_2279.jpg
向かって左手側が未申櫓。
IMG_2287.jpg
右側が巽櫓。
IMG_2288.jpg

それでは、巽櫓の脇から二の丸を通って本丸へ行って見ます。
IMG_2290.jpg

現在、本丸の巽櫓と未申櫓を結ぶ塀の内側に現在物見台が出来ていますが、以下はその物見台から見た巽櫓と未申櫓です。
塀から外側を見て左手側が巽櫓。
IMG_2296.jpg
右手側が未申櫓。
IMG_2298.jpg

未申櫓は内部が公開されていたので入って見ました。
IMG_2300.jpg
未申櫓の内部。
IMG_2306.jpgIMG_2313.jpg

1994年の阪神淡路大震災では、この2基の櫓と、その下の石垣も被害を受けてしまったとのことです。これらの被害を修理する方法として、櫓をレールによってそのまま奥に移動させるという曳家工法という方法が日本で初めて取られ、櫓の移動後に、石垣を積みなおすという作業が行われました。
IMG_2301.jpgIMG_2302.jpg
現在、この城の石垣を見ると積み方が新しく見える部分がありますが、それはその際に積み直されたものです。そして、この修理の際に2つの櫓の間の土塀が追加で再現されたということです。
また、この方法は、現在、弘前城でも行われ、既に3層の天守閣が石垣の上から移動され、石垣の補修が始まっています。

未申櫓を出ると、すぐに天守台の石垣が眼に入ります。
IMG_2316.jpg
天守台に上り未申櫓を見下ろして見ます。
IMG_2318.jpg

下から見上げた未申櫓。
IMG_2324.jpg

PS1.子午線が通る町「明石」
明石市は東経135度線上に位置し、明治43年日本で最初に標識を建てたことで子午線の町・明石が広く知られるようになりました。
下の写真は、山陽電鉄で明石からひと駅隣の「人丸前駅」ホームを横切る子午線の表示で、その先にあるここから天文科学館は、日本で最も古く1960年から稼働しているプラネタリウム投影機があり、これも明石市のシンボルのひとつとなっています。
IMG_2330.jpgIMG_2328.jpg

PS2.明石焼き
明石と言えば、有名なのが「明石焼き」もしくは「明石風たこ焼き」です。
ただ、この明石焼きは、たこ焼きというよりも玉子焼きに近いよなと思っていたら、地元では「たこ焼き」ではなく「玉子焼」と言われているのだそうです。成る程、やっぱり地元はちゃんと分かっているんだなぁなどと感じてしまいました。
さて、この「玉子焼」を食べるために、地元の「魚の棚」という名前のアーケードへ行って来ました。訪れた店は、そのアーケードの中ほどにある「たこ磯」さんです。
IMG_2358.jpgIMG_2368.jpg

下は「たこ磯」さんで頼んだ玉子焼き
IMG_2361.jpgIMG_2364.jpg
だし汁に付けて、中で割って見ると地元で取れた大きな蛸が。この玉子焼きにビールがとても良く合って旨かったです。

+α)姫路城訪問
明石から快速を使えば40分で姫路へ行けるので、姫路城を観るために姫路まで足を伸ばすことにしました。
IMG_2344.jpg
いわずと知れた日本が誇る世界遺産「姫路城」。この天下の名城「姫路城」が何故に+αの扱いかと言うと、行って見たら4時を僅かに超えてしまい、閉館となってしまったからです。Orz....

今回は以下のようなアプリをDownLoadして用意万端整えていたので、とても残念でした。(ただ、今回デジカメを家に忘れてきてしまい、iphoneのカメラだけだったので、そこはイマイチだったのですが)
IMG_2375.jpgIMG_2376.jpg
ARポイントへ行くと以下のようなCGが画面に追加されるとのこと。次回訪問時は、是非このアプリを使って姫路城訪問を堪能したいと思っています。
IMG_2347.jpg

PS1.えきそば
さて、姫路城訪問が空振りに終わってしまったので、何か美味しいものでも食べて見ようと思ったのですが、姫路には意外と名物と呼ばれるものが、あまり無いのですよね。そこで、B級になってしまうのですが、「えきそば」と言われる立ち食いそばを食べて見ることにしました。
IMG_2350.jpg
この立ち食いそばが、姫路で何故有名かというと、このそばが普通のそばでなくて、見た目がちょっと中華そばに似ているからです。
IMG_2354.jpg
ただ、食べた感じとしては、中華そばというよりもコシの無いチャンポン麺という感じでどうも自分的にはイマイチでした。ただ、まぁ、食べ物の嗜好は人それぞれですから、まずは自分で実際に食べてみて判断されるのが良いと思います。

PS2.551蓬莱のシュウマイ
どうも、姫路ではイマイチなことが続いてしまったので、新大阪駅で新幹線に乗り換えるとき、一旦改札の外出でて、蓬莱のシュウマイを買ってきました。
IMG_2373_2.jpg
やっぱり、お土産と言えば蓬莱のシュウマイですよね!今回は今までと違って豚まんの代わりに海老シュウマイを買ってしまいました。これも、とても美味しかったです。

信州・北陸100名城巡り(その②)

今週からついに新しい装置の据付が始まってしまいました。
自分が今年立てた目標は、この据付が自分にとって最後の大きな仕事になりそうなので、英語の勉強を据付工事が始まる前に眼一杯行うというものでしたが、工事が半年前倒しになったとはいえ、殆ど勉強しないうちに工事が始まってしまったのは痛恨の至りです。まぁ、嘆いていても仕方がないので、とにかく英語の勉強を始めるつもりです。ただ、現場の仕事が始まると、現場仕事の後に事務所に戻ってメール等のドキュメントワークを行うことになるので、帰宅が深夜か翌日になってしまう日々が続いてしまい平日は殆ど勉強できないというのが、今までのパターンで、今回もそうなることはほぼ間違いなさそうです...

このような状況なので、今後半年ほどはどこかへ出かけることも難しくなりそうですから、先月末に行った旅行については、この記事で何とかまとめておきたいと思います。

先月末の4日間の旅行の最終日は、金沢で友人と落ち合い、福井の朝倉館と永平寺を見てきました。前回は記事が長くなりすぎたので、今回は写真中心に紹介したいと思います。


1.一乗谷城(朝倉氏館跡)訪問
ここを訪れるのは、今回で3回目となります。同じお城を訪問するのは、恐らく熊本城に次ぐ訪問回数の多さになると思いますが、熊本城と異なり、ここには目立つような建物は殆ど何もありません。ただ、山間の谷間に突如人工的な平野部が現れて、そこは明らかに人の手が入ったように見えるのに、ガランとして殆ど建物が無いと言うところに独特の寂寥感のようなものを感じて個人的にものすごく気に入っているのです。

400年前、ここは越前朝倉氏5代の中心地として、多いときで1万人の人口を抱え、また応仁の乱から逃げてきた公家や僧侶たちからもたらされた華やかな京文化とも相まって、北の京と呼ばれるほどの栄華を誇りました。しかし、5代義景は織田信長との戦いに敗れ、先鋒として乗り込んできた柴田勝家の放火によって一乗谷の町は三日三晩燃え続け、100年続いた一乗谷の栄華は灰燼と帰してしまったのです。
81306024005504.jpg
上空から見た一乗谷。
     img382.jpg
当時の一乗谷の再現図。

燃え落ちてしまった後の一乗谷は、その後人が住むこともなく見捨てられ、さながらボンベイの遺跡のごとく土に埋もれ忘れ去られていきました。しかし、それから400年後の昭和43年(1968)から発掘調査が始まり、現在の遺跡の形に整えられて来ました。

DSC08898.jpg
山間部に切り開かれた平らな土地。ここにかつて町があったことを伺わせます。
DSC08894.jpg
遠くに見える朝倉館前の唐門。

1)朝倉氏館跡
DSC08905.jpg
この唐門は、当時の遺構ではなく、後年、朝倉義景の菩提を弔うため、豊臣秀吉が寄進したと言われています。

DSC08908.jpg
唐門を潜り中へ入ると朝倉氏館跡の基礎が広がっています。
DSC08915.jpg
基礎の奥には、滝石組、護岸石組を持つ庭園跡があります。この庭園は完全に埋没していましたが、昭和43年の館跡の調査で発掘されました。
DSC08916.jpg
背後の山腹から見た朝倉氏館跡。中央に四角く区切られ樹が生えている部分は花壇であったと言われています。

2)湯殿跡庭園
DSC08923.jpg
館跡を見下ろす山腹にある湯殿跡庭園。朝倉氏遺跡の中にある3つの庭園の中で、一番荒々しい石組を持った庭園です。現在、水は枯れてしまっていますが水路が山際に沿って南から北に走り滝口に注ぐ池泉庭園となっています。

3)諏訪館跡庭園
諏訪館は朝倉義景の妻「小少将」の屋敷跡と言われています。庭園は遺跡の中でも最も規模の大きな、廻遊式林泉庭園です。
DSC08941.jpg
中心の巨石とそれに並ぶ古木、その間を流れる水路のバランスがとてもよく、安定感があります。

DSC08924.jpgDSC08947.jpg

4)再現された街並み
特筆すべきは、ここに一乗谷の街並みが再現されていることです。江戸時代の街並みや武家屋敷ならば各地にまだ残っているところもありますが、中世の民家及び武家の屋敷が再現されているところはあまり無いと思います。
DSC08954.jpg
街並みの雰囲気も中々です。
DSC08955.jpgDSC08957.jpg
内部は、このような人形を置いて再現しています。

DSC08962.jpgDSC08964.jpg
大規模屋敷の跡地。あちらこちらに桜の大樹があります。春になると桜の花が満開に咲いてとても綺麗です。

DSC08976.jpgDSC08980.jpg

今回、直前に訪問した永平寺で時間をかなり取ってしまったので、朝倉氏館を見る時間をあまり取れませんでした。次回は、もっと余裕を持ってゆっくり観て廻りたいですね。また、朝倉氏館の背後にある一乗山城にも、今後是非登城してみたいと思っています。

PS.
再現街並みの入り口に、一乗谷へ大河ドラマを誘致しようとのポスターが張ってありました。気がつくと、売店の中等、結構色々な場所にこのポスターが張ってありました。ですので、地元でこの誘致運動が盛り上がっているのかと、再現街並みの中にいた地元の方らしき人に、この誘致運動のことを尋ねてみたところ、”無理でしょ。だって地味だし、最後に滅んじゃったし”とあっさり返されてちょっと笑ってしまいました。いや、全くその通り。
このところ、アニメを町おこしに使おうとする町が多くなったことを時々ニュースで聞くようになりました。でも、中には作品の中身をろくに観ないでアニメを使おうとする町もあるようで、そういうのは作品に対しても町に対しても失礼なのではないかと思うこともしばしばあったのですが、今回即答してくれた地元の方のように、ちゃんと作品の内容を予測して町おこしに使えるかどうかを冷静に判断する姿勢は、やっぱり必要だなと感じてしまいました。

2.永平寺訪問
一乗谷へ行く前に永平寺に寄って見ました。

永平寺は、福井県にある曹洞宗の寺院で、横浜にある總持寺と並んで日本の曹洞宗の大本山となっています。宗祖は、道元禅師。

現在でも曹洞宗の道場、修業の場であると同時に多くの観光客の訪れる場ともなっています。禅の道に興味をもった多くの外国からの修業者も訪れています。申し込むと、泊まりこみで,雲水の修業に近い生活を送る参篭や参禅,研修もさせてもらえ、永平寺客膳料理として本膳,二の膳の精進料理も食べられるとのこと。もちろん、今回は見学だけです。以下に、永平寺の写真を貼ってみました。
DSC08779.jpgDSC08787.jpgDSC08793.jpgDSC08802.jpgDSC08811.jpgDSC08819.jpgDSC08862.jpgDSC08844.jpgDSC08864.jpg

3.北陸で泊まった旅館
金沢では、相変わらず健康ランドの”テルメ金沢”に宿泊しましたので割愛して、上田で宿泊したホテルを紹介します。
・上田プラザホテル
DSC08580.jpg
上田駅から徒歩10分ほどの距離にある、普通のビジネスホテル。では、なぜここに宿泊を決めたかと言うと、一階に併設されている”めざまし食堂”の朝食が美味しいとNetに紹介してあったからです。
DSC08576.jpg
何の変哲も無い朝食。でも、見た目が普通なのに、本当に美味しかったです!別に高級じゃなくても普通に美味しい食事ってあるもんなんだなぁと実感してしまいました。まぁ、基本は普通の朝食なので、食べて感動するといった類の旨さでは無く、きちんとしたものを食べて体が健康になる気がするような美味しさ?です。あまり、ハードルを上げすぎるのも良くありませんからこの辺で止めておきますが、自分的にはここの朝食はお勧めですよ!

ホテルそのものは、若干古さが目立つので、新しくて機能的な感じのホテルを好む方は違うホテルを選んだほうが良いかも。しかし、多少古くても掃除は行き届いており、ロビーや階段にたくさんの本が設置されていて好感が持てました。
DSC08582.jpgDSC08584.jpg
こういう営業努力とても好きです。

4.北陸新幹線(&しなの鉄道)
今回初めて北陸新幹線に乗ってみました。
DSC08765.jpg
ちょっと驚いたのは、運行本数の少なさです。地元の名古屋駅からは、のぞみが10分に1本くらいの割合で発着しているので、同じようなものかと勘違いしていました。
今回、北陸新幹線の各駅停車タイプである"はくたか"を使って、東京~上田~金沢間を移動しましたが、はくたかは、1時間に1本くらいしかないので乗車時間を確認してから行動しないと、駅で無駄な電車待ち時間を過ごさなければならなくなる可能性があります。でも、それは人口的に利用者数が少無いので仕方ありませんね。
DSC08762.jpg
北陸新幹線が山間部を抜けて、日本海側の夕日が見れたときは結構感動してしまいました。

・しなの鉄道
DSC08752.jpg
しなの鉄道は、北陸新幹線高崎駅 - 長野駅間の先行開業に際し、JR東日本から並行在来線として経営移管されることとなった第三セクター鉄道です。第三セクター経営の路線はどこも経営難ですが、地方の足として必要な路線ばかりですので、何とか頑張って欲しいところです。
DSC08753.jpg
扉を自分で開閉するタイプです。
DSC08746.jpgDSC08659.jpg
小諸駅の駅舎。地方の駅舎は味があってとても好きです。ここにも"あの夏で待ってる"のポスターが貼ってありました。懐かしかったので以下にOPを貼って見ます。今回初めて気がついたのですが、OP映像の中に小諸城の場面がありました。

ついでに、EDも貼って見ます。ED曲"ビードロ模様"は、今では有名になってしまったやなぎなぎさんのデビュー曲です。

ここまで"あの夏で待ってる"を推しながら、実は途中で視聴を脱落しています(え...
OP/ED及び雰囲気は良かったのですが、話の内容がイマイチでした。本作は、次世代を担う事が期待される長井龍雪氏が監督を行いましたが、この頃から長井監督のPowerDownが始まったような気がします。


PS.オバマ大統領の広島訪問
自分が上田に宿泊した日は、調度オバマ大統領が広島を訪問した日で、宿泊後自分はずっとオバマ大統領の広島訪問のニュースに見入っていました。

自分は、あまりオバマ大統領という人を政治家的に信用していないところがあります。オバマ大統領の政治スタンスは、所謂リベラルと言うものなのでしょうが、理想を掲げながらも徹底的にリアリストでなければならない政治家というものに、自分の理想に重点を置いてしまうリベラリストという人たちは向いていないと自分は思っているのです。でも、この広島訪問は、そのリベラルなオバマ大統領だからこそ出来たことなのは間違いありません。その点は、オバマ大統領に感謝をしています。恐らく、オバマ大統領以外で広島を訪問する米国大統領は今後出てこないだろうと自分は思っています。

原子爆弾の投下は、広島で20万人、長崎で7万人の民間人を虐殺し、この2つの都市を一瞬で地獄に変えました。この27万人という膨大な人数の無差別な民間人虐殺は、明確な戦争犯罪であり、自分はこの行為を絶対に許すことが出来ません。しかし、直接の原爆被害者である日本被団協の田中事務局長が語った”被爆者に対しては謝罪をしてほしいという気持ちはありますが、それを強く求めることが核兵器をなくすことの障害になるのなら、ぐっと抑えて(オバマ大統領に)核兵器廃絶の先頭に立ってほしいという願いがある”の発言に含まれた核兵器根絶に対する強い思いは、多くの日本人の共通の願いでもあったと思います。そして、今回、日本政府はアメリカに謝罪を求めないことでオバマ大統領の広島訪問を実現させ、日本の右派も左派も、今回は互いによく沈黙を通し、政治的な発言を控えました。自分は、今回オバマ大統領の広島訪問が実現できて本当に良かったと思っています。

この広島訪問で、以下の映像や写真が繰り返し流されたのを覚えておられる方も多いと思います。
森重昭氏
このオバマ大統領と抱き合っている方はいったいどなたなのでしょうか。この方は、森重昭氏という普通の民間の方で、単独で広島城内にあった旧日本軍施設などで被爆し、亡くなった米兵捕虜12人の足跡を調査し見つけ出された方です。このことは、あまり日本で報道されなかったように思えます。毎日新聞では比較的詳しく紹介されましたが、朝日新聞では、極簡単に触れられただけでした。

自分も、Net上でイギリス人ジャーナリストのジュリアン・レイオール氏(英国デイリー・テレグラフ紙記者)が書かれたコラムの紹介記事を読んで初めて森重昭氏のことを知りました。

長いですが、このコラムの全文を掲載したいと思います。
(このコラムの全訳は、みずきの女子知韓宣言(´∀`*)様から頂きました。)

================================================
1945年8月6日に広島に投下された原爆によって亡くなった犠牲者の中には、12人の米軍捕虜も含まれていた。
アマチュア歴史家の「森重昭」(79歳)さんは、40年以上を捧げて被爆米兵の遺族全員を探した。
米国の映画監督のバリー・フレシェットは、その記録を「Paper Lanterns」というタイトルの映画で紹介した。

40年の間、森重昭さんは、広島原爆で犠牲になった14万人ほどの人々を含む被曝米軍兵士12人の記録の断片(パズル)を合わせていった。
2016年に79歳になった森さんは、本人も被爆被害者だ。
自らを顧みず献身してきた彼の偉業は、被爆米軍の犠牲者「ノーマン」と、学生時代に親しかった友人の甥(映画監督のバリー・フレシェット)に知られる前までは、世の中にまったく知られていなかった。

「森さんは40年もの歳月を注いで、被爆米軍の謎を解いてきました。アマチュア歴史家として史実を非常に重視している森さんにとって、仔細で詳細な歴史的な発見が非常に重要だったからです。12人の米軍飛行士に敬意を表して、人々の記憶を一つ一つたどって、遺族に対して何が起きたのかを知らせたかった森さんは、ついにその仕事をやり遂げたのです」とフレシェット監督は言った。

バリー・フレシェット監督と森さんが出会った運命は、監督が生まれるはるか前、米陸軍所属B24爆撃機のロンサム レディー号とトロア号が、別の2機の米海軍の戦闘機と共に、 1945年7月の終わりに日本巡洋艦を爆撃して撃墜された時点からすでに始まっていた。
撃墜された爆撃機の乗組員がすべて生き残ったのではなかった。
パラシュートで降下して日本に救助された13名は、近くの都市の広島の日本軍憲兵隊司令部に護送された。
その後、トーマス・カートライト中尉は尋問のために東京に移送された。
この分かれ道が、トーマス中尉の命を救うことになった。

1945年8月6日の朝8時15分に原爆が広島上空で爆発したとき、米軍捕虜が抑留されていた憲兵隊司令部は、爆心地から400メートルの距離だった。
9人の捕虜は即死した。
シアトル出身の「ヒュー・アトキンス」軍曹は奇跡的に生き残ったが、次の日に放射能の症状で死亡した。
残りの二人の「ラルフ・リール」軍曹と「ノーマン」上等兵は、原爆が600メートル上空で爆発する直前に、尋問を受けるために憲兵隊からやや離れた場所に移送された。
しかし二人もまた、原爆の影響から完全に逃れることはできなかった。
日本人医師からの応急処置と治療を受けたが、13日後に放射線症状で死亡することになって、日本の憲兵隊員によって葬儀が行われた。
8月9日、第二の原爆が長崎に投下されて、日本は8月15日に降伏した。

1945年当時8歳だった森さんは、広島を覆う惨禍の中で九死に一生で生き残った。
森さんは、当時の状況をこう語った。

「爆発当時、爆心地から2.5キロ離れた北西の方の丘にいました。爆風に押されて川に落ちて、やっと意識を取り戻した時は、キノコ雲の真ん中にいました。世界中が暗くて、目の前10センチメートルの距離の私の指の動きですら見えませんでした。焼けるような感じ(熱気)が信じられないほど強くて、周辺の木々や家、そして、その中にあるものが空中に吸い込まれて巻き上がっていました。地球が爆発したのではないかと思いました」

戦後、森さんは、自らの人生設計に邁進した。
学校では特に歴史科目に興味があったし、成績も非常に良かった。
森さんは歴史の教授になる夢を育てていくと同時に、大学卒業後は大手証券会社、そして後には楽器メーカーヤマハで定年まで働いた。
リサーチ(調査活動)は週末を利用した。
森さんの歴史研究への情熱は、持続した。
38歳の時に森さんは、当時の米軍の飛行機が、伊陸村(現在の山口県柳井市)近くの山に墜落したという話を聞いた。

「この話を聞いて、私は実際に墜落したという現場を訪ねて、農家の噂をたよりにして捜した結果、みんな墜落の事実をよく知っていました。そして、彼らは墜落現場に私を案内してくれました」

森さんが現場で目撃したのは、米軍爆撃機の「ロンサムレディー号」の残骸だった。
その後数年間の研究を通じて、森さんは米軍の乗組員の名簿一人一人をすべて把握して、かれらが広島憲兵隊司令部に移送されたことを明らかにした。
併せて、その後に墜落した別の米軍の爆撃機の乗組員三人も捕虜に追加されたことも分かった。

しかし森さんは、名前を確認しただけでは満足できなかった。
可能なら遺族を見つけ、自分が明らかにした情報を最大限に伝えようと思った。
政府機関は事実上、参考にならなかった。
まず死亡した米軍のファミリーネーム(姓)を探して、同姓のアメリカ人を見つける作業から着手した。
当時、携帯電話で国際電話オペレーターの通訳を介して、ワシントン州を皮切りにして、米軍の死者とファミリーネームが一致する人を探し始めた。

「調査は簡単ではありません。私は心臓の機能に問題があって、米国現地に行くことができませんでしたし、米国には50個もの州があって、同じ姓を持つアメリカ人が無数にいたからです。それでも、死ぬまで探そう、何とか遺族を探して、死亡した米軍兵士の写真と名前を正式に平和記念資料館に原爆犠牲者として登録しなければと決心しました」

国際電話通話料金の請求書は、毎月7万円ほどになった。
調査はずっと難航した。
そしてついに、「ジェームズ・ライアン」の兄「フランシス・ライアン」と出会ったのだ。

「被爆米軍兵士の名前を最初に平和記念資料館に登録する時、思わず涙があふれました」と森さんは当時を思い出した。
「誰にも知らせずしていた仕事だったので、誰からの助けを受けることもありませんでした。困難が続きましたが、私は何とかこれを成し遂げたかったのです」

「フランシス・ライアン」から出撃前に撮った写真をはじめとする新しい情報を得ることができたし、B24爆撃機ロンサムレディー号の機長の「カート・ライト」中尉を見つけることに成功した。
「カート・ライト」氏とは、それ以来20年以上の友情を築いた。
カート・ライト氏が昨年(2015年)に亡くなるまで、お互いに交換した手紙は100通を超えた。

「広島には原爆犠牲者のための数十個の慰霊碑があります。しかし、犠牲になった米軍兵士のための碑は一つもありませんでした。私は幸いなことに生き残りました。だから、生き残った私は何とか遺族を見つけ、愛する家族(米軍兵士)の最後の様子を伝えなければという気持ちがより一層切実になりました」

1999年森さんは、12人の被爆米軍の犠牲者の記念碑を広島憲兵隊司令部のあった場所に建てた。
2012年には、トルーマン大統領の孫のトルーマン・ダニエルさんと共に、この記念碑に献花して、弔意を表した。
徐々にこのような森さんの努力が世に知られるようになって、米国メリーランド州の米国州立国会図書館の膨大な資料をはじめとする他の様々な膨大な資料をもとに、最終的に12人の被爆米軍の犠牲者全員の遺族を見つけ出すことになった。

森さんは、最後の12人目の米軍の遺族を探し出したとき、もう目的を達成したという気持ちにしばらくなっていたが、決して研究活動からは手を離さなかった。
今は二番目に原爆が投下された長崎で犠牲になったイギリス軍とオランダ軍捕虜の遺族の行方を探しているところである。

被爆米軍の「ノーマン」上等兵の遺族は、森さんが様々な情報を送ってくれたことに対し、森さんに心から感謝している。
このような事情をノーマンの学生時代の友人の「エディ・シャンドゥネ」が知ることとなった。
「エディ」は、自分の甥の映画監督「バリー・フレシェット」に、ノーマンの遺族らが長い間知らなかったノーマンの最後の詳細を知ったことを喜んでいると伝えた。
バリー・フレシェット監督は、「遺族が整理しておいたノーマン関連の本を手に入れて読みましたが、すぐに熱中しました。その話は広島で被爆した12人の米軍の話でした。ところで、私たちの世代の人々は、このような話を全く知りません。そのため、この話を世の中に知らせなければという考えを持つようになりました」と述べた。

バリー・フレシェット監督は、2013年の春、初めて森さんに連絡を取った。
そして翌2014年2月には、ノーマンの遺族が渡した本の内容が本当かどうかを直接本人の目で確認するために、単身で日本に入国した。
監督はこう言った。

「森さんの家に到着して応接室に入ると、乗組員一人一人の書類が、ピアノや応接テーブルなどの上にぎっしりと置かれていました。森さんは、それぞれの乗組員について、驚くほど詳細で正確に調べていました。結婚していたのかどうか、子供がいるのかどうか、子供が何人なのか、出身地と搭乗爆撃機の関連情報など…そして、私はその場でこれを必ず世の中に知らせなければという思いをさらに強くしました。ノーマン氏の故郷のマサチューセッツ州ローウェルに住んでいる人よりも、はるかにノーマン氏についての詳細を知っている人に日本で会うことになるとは、夢にも思いませんでした」

監督は最近2年間のドキュメンタリー制作に集中する中で、「ノーマン」氏の甥「スーザン・ブリセット」氏と「レルプ・ニール」氏と一緒に日本を訪問した。
ノーマン氏の遺族と森さんとの出会いは、実に感動そのものだった。
このシーンは監督の映画「Paper Lanterns」のクライマックスに入った。
映画は米軍それぞれの遺族と、ピースの形になっていたパズルを合わせていくアマチュア歴史家森さんの話だ。
森さんは、映画の最後の部分でこう言う。

「戦争とはこのように悲劇的なことです。今後の世界は常に平和であることを願っています」

○森重昭(79歳)

-1937年生まれ、アマチュア歴史家、広島被爆の経験者。現在、妻の佳代子さんと広島在住。二人の子供がいる

================================================

森氏はその功績で、在日米大使館から日本人で唯一人、この式典に公式に招待されました。

このコラムを読んだとき、森重昭さんの尊い行いに思わず胸にこみ上げるものを感じたのと同時に、この事実を外国人が書いたコラムで知ったことを日本人として恥ずかしくも感じました。


先週の日記(4/21-30)と100名城巡り及び備中高梁訪問

昨日4/29から、2人の米国人エンジニアが来日し、GW期間を使ってマシンの定期点検が始まりました。今回のGWは多い場合だと連続10日間休む会社もあるようですが、自分の場合は土日及び休日を含めて、このGW期間中休めるのは1日だけです。まぁ、再来週の木金曜日の2日間は代休が取れそうなのですがそれ以外は難しそうです(年末年始の連休を除き、お盆等の長期連休の全て潰れるという生活が、現在の会社に入社以来、既に10年続いています。こんな生活なので、自分はこの会社に入社以来、有給休暇などは取ったことが無く、それどころか、毎年代休を20日以上切り捨てているとんでもない状況です。この状況を当たり前とは絶対に言いませんが、中小企業の宿命で仕方がないことかなとは思っています...)。

さて、今回来日した二人ですが、気持ちのいいナイスガイなのだけれども、マシンの操作を全く知らないとは思ってもいませんでした。だ、大丈夫なのか...?不安なので彼らから目を離すことが出来ないのですが、できるだけ協力して何とかこのGWを乗り切ろうと思っています!

今回の更新は昨週の木曜日の夜から一週間以上空いてしまったのですが、実際、中々時間が取れず、更新ができない状態でした。しかし、今日は早めに上がることができましたので、先週末からのことを忘備録がわりにUpしておこうと思います。

・4/21, 22 営業会議出席
 逃げ回っていた営業会議に結局出席するはめに。しかも、今までは壁際の椅子にオブザーバーのような顔をして座って誤魔化していたのに、ついに机がある席を設けられてしまった。役職的に出席することは仕方ないとは言え、とにかく自分は営業職ではないので話に参加することは殆ど出来ず、ひたすら辛い時間を過ごしました。次回の営業会議は本当にもう勘弁してください。

営業会議の後は、懇親会があるとのことなので会場を移動しましたが、その前に懇親会会場近くの北野異人館街に立ち寄りました。
IMG_1489.jpgIMG_1493.jpg
まぁ、神戸らしくオシャレですね。

神戸外国倶楽部というところで懇親会。
IMG_1527.jpgIMG_1529.jpg
ひたすら食って退散しました。

・4/23, 24 名古屋へ帰る前に岡山へ立ち寄り100名城巡り&備中高梁訪問
 本記事の下のほうに、簡単にまとめて見ました。いつか詳しい記事をUpしたいと思っています。
 旅行そのものは楽しかったのですが、提出しなければならない資料のことなどが綺麗に頭から飛んでしまい、月曜日に結構きつめの非難を受けて針の筵状態でした。何やってるんだ自分...。

・4/25 ロサンゼルス支店の同僚が結婚式を挙げ、その2次会のようなものに出席しました。
IMG_1537_2.jpg
(K君、結婚おめでとうございます!しかし、残念ながらピンボケのひどい写真しか取れませんでした。)

彼には、自分が始めて海外出張したときものすごくお世話になりました。自分は今でもダメな英語しか話せませんが、入社直後はそれどころか全く英語が話せず、その状態で米国へ出張する羽目になり、その米国メーカでの会議の席上で取引先のプロジェクトマネージャーから"お前はnoisyだ"と言われて(しかし、普通そこまで言うか?)落ち込んでいた時に、彼からアメリカのことを色々教えてもらいました。ロサンゼルス生まれの彼曰く、”アメリカと言う国は移民国家なので、全員が英語を話せるとは限らない。そういう国の中では、英語を使って自分自身の考えを話すことは、最低限のステータスとして考えられていて、それが出来ない人は馬鹿にされても仕方が無いという共通の認識のようなものがある。日本のように、住人の殆どが日本語を話せるような国とは考え方に違いがある”とのことで、成る程なぁと納得したものでした(納得したからと言って、いいことは何も有りませんでしたが)。しかし、それから10年経っても、自分はあまり成長していないなぁ...。それは兎も角、K君、末永くお幸せに!

・4/27 ワインの試飲会?
自分の会社は、オシャレにもワインの輸入などを扱っている部署があります。そして、その部署がお客様を招待してワインの試飲会開催することが年に数回あるのですが、その日は、その試飲会が終わった後、社員同士の内輪の飲み会でワインをボトル半分ほども空けてしまい、フラフラ状態に。この状態で乗った終電を間違った駅で降りてしまいベンチで寝ていたところを(この辺の記憶は全く無い)駅員におこしてもらい、やっとのことでタクシーにてご帰還することに相成りました。いい歳をして、何やっているんだ...。

・4/28 韓国人Yさんとの最後の晩餐
現在来日中の韓国人のYさんが仕事が終わり、米国に帰国することになりました。最後に一緒に飯を食おうということになり、名古屋名物のひつまぶしを食べに会社の近くの鰻屋へ行って来ました。
IMG_1559.jpg
Yさんは、もう高齢で恐らく今回が最後の来日とのこと。そして、はっきり口には出していませんでしたが引退することも考えている様子でした。Yさんは30代で米国へ渡米し、そこで結婚して2人の娘を育て上げたのですから、自分などよりも遥かに苦労しているのは間違いありません。そんなYさんとは色々ありましたが、やはり楽しかったですね。そして、まだ引退されていませんが、Yさんお疲れさまでした。


先に書いたように今週の金曜日から定期点検が始まりましたが、5/6に休みを取る以外は土日も働き続けになります。この間は英語の勉強を行う時間は無さそうで、ブログの更新もあまり無いかもしれません。ただ、5/6の休日には、名古屋で開催されるシャフト40周年記念のマドガタリ展を見てくるので、その記事はUpしたいと思います。


PS.先週の週末に岡山で百名城巡り及び備中高梨の訪問を行ってきたので、以下に簡単にUpしてみます。いつか時間があれば、詳しい記事を書いてみたいと思っています。

1.百名城巡り(備中松山城、鬼ノ城、岡山城)
1)備中松山城
TVで竹田城が雲海の城として有名なった後、竹田城に続く第二の雲海の城として有名になってきたのが備中松山城です。
しかし、城好きの人にとっては、現存12天守の1つを備え、日本三大山城(備中松山城、高取城、岩村城)の筆頭である備中松山城は昔から名城の誉れが高いお城で、自分にとって今回は2回目の登城でしたが、改めてこのお城の素晴らしさを実感することが出来ました。
DSC07717.jpg
2層と小さいながらも千鳥破風を飾った出窓の意匠が堂々とした天守閣。
DSC07759.jpg
天守裏側の2重櫓。
DSC07771.jpg
見事な石垣の連なり。この高所でこれだけの石垣を作り上げた技術と労力は感嘆するものがあります。

2) 鬼ノ城
岡山県総社市に位置する鬼城山の山上に鬼ノ城はあります。
鬼ノ城の築城年代は約7世紀頃と推定されていますが、正確な築城年代はもちろん築城者も不詳な謎の古代遺跡です。築城の目的については、663年の白村江の戦いにおける敗北から、唐・新羅の連合軍の本土侵攻に備えたとも考えられていますが、『日本書紀』などにも一切登場していませんので、この古代遺跡は未だに多くの謎に包まれています。
現在、西門の復元が完成していますが、これは実際の柱の跡を元に、古代の土塁工法を使って推測復元したものです。この西門の他に城壁復元工事が断続的に続けられています。
DSC08077.jpg
鬼城山の麓から、車がすれ違うことが全くできない程細い山道を延々3km以上登ると、やっと鬼ノ城西門が見えてきます。
上の写真は途中の物見台から見た鬼ノ城西門全景。
DSC08063.jpg
間近から見た鬼ノ城西門。推測復元されたものなので、正確に形状を再現したものでは無いのですが、正確さ以上に、謎の古代遺跡というものにはロマンを感じてしまいますね!

3) 岡山城
戦前まで、岡山城天守閣は現存して国宝にも指定されていましたが、空襲で惜しくも燃え落ちてしまいました
現在の天守閣は、昭和41年に鉄筋コンクリートで復元されましたが、やはり味気ないですね。あるブロガーさんは、岡山城の外見をレゴで出来ているように見えると表現されていましたが、まさしくそんな感じです。
DSC07651.jpg
下は、焼失前の岡山城天守閣。最下層が不等辺五角形であることから安土城天守を模して作られたとも言われ、大きな入母屋根を持った古い建築様式を残した貴重な遺構でしたので、焼失してしまったことがとても残念です。
岡山城photo_3
今回は、大急ぎで巡ったため、岡山城の庭園である後楽園へ行く時間がありませんでしたが、日本三大名園にも数えられる程の名園とのことですので、次回は是非訪れてみたいです。

2.備中高梁の町並み
今回、備中松山城やベンガラの里(吹屋)を訪問するために、備中高梁に宿泊しました。備中高梁は、岡山駅から伯備線で約1時間ほど行った所にある山間の古い城下町で、昔の町並みと自然の景観が美しい町です。

1)石火矢町ふるさと村
備中松山藩の武家屋敷が立ち並ぶ地域です。路地の両脇には白壁の長屋門や土壁が続き、昔の面影を残しています。
DSC07805.jpg

2)紺屋川筋
かつて備中松山城の外堀の役割を果たしていた紺屋川。その河畔に桜と柳の並木道が続き、「日本の道100選」にも選ばれているとのことです。
DSC07862.jpg

3)中州公園
中州と書いてちゅうしゅうと読むのだそうです。備中松山城から宿泊先の油屋旅館までの途中にあった公園で、小さな水路脇の散策路がとても美しかったです。
DSC07787.jpgDSC07790.jpg

4)油屋旅館
今回宿泊した旅館です。備中高梁では最古の旅館で鮎料理が有名とのこと。鮎の時期が6~8月とのことで、ちょっとずれていたのが残念でした。
DSC07816.jpg

3.ベンガラの里(吹屋)と広兼邸
備中高梁市街から車で1時間程走った山間に、江戸時代中期からベンガラ(弁柄)-朱色顔料-の鉱山の拠点として栄えた村、吹屋があります。
ベンガラの赤い格子が続くとても美しく均整のとれた町並みですが、この美しさは自然発生的にできたものではなく、江戸後期に豪商たちが相談し、わざわざ島根の石州から宮大工を呼び寄せて、町全体の景観も考え造られたものだそうです。当時としてはものすごく進んだ考えですね!
昭和52年には文化庁から国の重要伝統的建造物群保存地区の認定を受けたとのこと。

1)ベンガラの里の町並み
DSC07884.jpgDSC07890.jpg
赤銅色の石州瓦とベンガラ色の外観がとても印象的な町並みです。

2)吹屋小学校(県指定重要文化財)
2011年に廃校になるまで、現役の木造校舎としては国内最古の小学校とのことで見学するのを楽しみにしていたのですが、現在保存修理のため、建物全体を覆って工事をしているので、その中は全く見えません。(パンフレットの下に小さく書いてありました。全然気がつきませんでした...)
DSC07898.jpg
平成32年3月末に修理完了とのことなので、その際また訪れたいですね。

3)広兼邸
ベンガラの里から2km程離れた場所に、小泉銅山とローハ(ベンガラの原料)製造で巨万の富を築いた大野呂の庄屋・広兼氏の邸宅があります。この邸宅は、松竹映画【八つ墓村】多治見家のロケ地として有名です。自分は学生の頃、大の横溝正史ファンでしたので、この広兼邸には是非来てみたかったのです。

DSC08007.jpg
広兼邸見学の駐車場に車を止めて見上げると、広兼邸の全景を見渡すことが出来ます。城郭のような立派な石垣に圧倒されます。
DSC08004.jpgDSC07968.jpg
この広兼邸の入り口に続く坂を、映画の中では山本陽子さんが寺田辰弥役の萩原健一を迎えに出るために降りてくるシーンを覚えています。当時の山本陽子さんは本当に綺麗だったなぁ。

4.番外編 ブラジリアンパーク 鷲羽山ハイランド
備中高梁へ向かう前に、岡山県の瀬戸大橋近くにあるブラジリアンパーク 鷲羽山ハイランドに立ち寄りました。
ここには、ネットで世界一怖いと評判になったスカイサイクルというものがあり、それに是非乗ってみたかったからです。

スカイサイクルとは、レール上に固定された自転車の形をした乗り物を自分で漕いで進んで行くものなのですが、そのレールのコースがとんでもなく高い場所にあり、恐怖のあまり足が竦んで動けなくなってしまう人が続出しているとのこと。成る程、これは、ちょっと乗ってみたくなるじゃありませんか!

DSC07573.jpg
体を固定するには程遠いアバウトな感じの安全帯と錆び錆びの車体。う~ん、これはいい感じにヤバさを演出していますね。
DSC07583.jpg
第一のコーナー。ここは、ほんの挨拶程度というところです。
DSC07591.jpg
次に見えてきたのが有名な恐怖のコーナー。明らかにレールが外側に傾いているのが更に恐怖を煽ります。
DSC07593.jpg
この撮影が限界でした。マジ怖い!
DSC07594.jpg
無事、元の場所へ到着。先に行っていた人が手を振ってくれました。

でも、確かに怖かったのですが、自分は、もうおっさんなので、ちょっとしたくらいの恐怖では物足りなくなっているのかもしれません。もう一声欲しいな思っていたとき、下のようなバンジージャンプの立て札発見。
DSC07563.jpg
どうやら記念のTシャツもくれるらしいので、やって見る気になりました。
DSC07595.jpg
安全帯を体に装着し、注意事項を聞きます。なるほど、水泳の高飛び込みみたいに手を広げて飛ぶのではなくて、体に固定しているロープが顔に当たらないように腕を頭の後ろに組んで、肘で自分の顔面を防御するようにして飛ぶのか。スカイダイビングのシーンを頭に思い描いていたのですが、勘違いしていました。

ジャンプ台に上って、周りを見回すと想像以上の高さです。スカイサイクルのあの恐怖のコーナーがメチャクチャ小さく見えるので更に高さを感じてしまいます。
DSC07617.jpg
下を見ると人が豆粒のようです。これは、スカイサイクルより確実に怖い!
DSC07619.jpg
でも、意を決して飛んで見ると、飛んだ後はロープに吊られてビョンビョン揺れるだけですから、バンジーの醍醐味は飛ぶ前に味わう恐怖ってところですね。

因みに、バンジーをやっている時、"亜人"佐藤の倒れるビルの屋上のシーンを思い出していました。
ccec0647.jpg4155d184.jpg
佐藤 ”スリル満点!”

佐藤はイカレているけれども、敵としての魅力は間違いなくありますね!

まぁこれらは、今回の旅の番外編でしたが、いい経験をしました。

熊本城・黒川温泉訪問

今回は、前回の記事で書いた阿蘇山周辺の散策(岡城・阿蘇神社)の後に訪問した熊本城・黒川温泉について書いてみたいと思います。前回の記事の続きとして書けば、時間軸上は黒川温泉訪問が先ですが、今回は熊本城訪問から先に書いてみようと思います。

ちなみに、先週末は、ユナイテッド・シネマ系列のガルパン劇場版4DXの上映館で販売している"ダージリン様のポップコーンセット"がどうしても食べたくて、奈良県まで遠征して2回目のガルパン劇場版4DXを見てきたので、今週も一週間に最低一回更新のノルマを果たせませんでした...

一応、それだけでなく100名城巡りとして高取城訪問もしたし、せっかく奈良まで行ったので猿石や酒船石も見てきましたよ!何しろ謎の古代巨石遺物ってのはロマンだからな~♪...って、それはともかくポップコーンセットを食いに奈良まで行くとか、やっぱり頭どうかしてるよ...

1.熊本城訪問
前日宿泊した阿蘇山の麓にあるゲストハウスASO BASE BACKPACKERSを出て車で走ること約1時間半。熊本市の中心に近づくと丘陵状の丘の上にある熊本城址が見えてきました。熊本城を訪問するのは今度で4度目になりますが、自分にとって熊本城は、何度来ても見飽きることは無い、正に名城中の名城です。
DSC05759.jpg

よく言われる日本三大名城の一つに数えられる熊本城ですが(残りの二つは名古屋城と大阪城)、自分にとっても熊本城は、姫路城と並び立つ双璧の城です。姫路城が巧妙な縄張りを配する実戦的な城であるにも関わらず優美で華麗な意匠を纏う姿が素晴らしく、どことなく女性的な美しさを感じさせるお城であるのに対し、熊本城は、堅固な軍事要塞としての無骨さの中にも機能美を持ち、かつ巨大な天守の他に五重櫓が六基も立ち並ぶという壮大さが男性的な力強さを感じさせる城で、外見は対照的ですがどちらも甲乙つけがたい魅力に溢れたお城なのです。

ちなみに、先に挙げた3大名城は、城造りの名手と謳われた藤堂高虎・加藤清正が築城に携わった中で特に優れた城郭として挙げられたとのことですが、それ以外にも見方によっては色々あるらしく、
「城郭の規模で選定した三名城」では、江戸城、名古屋城、大阪城
「日本名城百選から抜粋された上位三城」には、大阪城、熊本城、江戸城
「江戸時代の天守を象徴する三名城」には、名古屋城、姫路城、熊本城
といったように、諸説あるようです。

個人的な三大名城としましては、上位二城は先に挙げた熊本城及び姫路城で、その後に来る城は、名古屋城でも大阪城でも江戸城でも構いません。しかし、熊本城、姫路城の二城は、自分にとってその他の城とは全く別格の城なのです。

1-1.熊本城の歴史
熊本城は、城作りの名手と呼ばれた加藤清正によって築城され、加藤氏改易後に入城した細川氏によって拡張・整備されました。以下に、熊本城が辿った歴史を簡単にまとめてみます。

1)加藤清正による熊本城築城
DSC05674.jpg
加藤清正は、永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶の加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村に生まれました。母が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であったことから、天正元年(1573年)、近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられました。清正は秀吉の親戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられて、清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けました。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の戦いに参加した。翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられました。

そして、天正14年(1586年)からは秀吉の九州平定に従い、肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5,000石を与えられ、隈本城(この隈本城は、以前の領主が築城した現在の熊本城とは異なる城)へ入城しました。(残りの肥後南半国を治めたのは、後に清正と確執を深めていく小西行長でした。)

北肥後の領主となった清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城を含む茶臼山全域を取り入れた近世城郭への改修を始め、1600年(慶長5年)頃には天守が完成し、1606年(慶長11年)には城全体の工事が終了しました。城の完成を祝って、その翌年に清正は「隈本」を「熊本」と改めました。

2)細川氏の入城から明治・西南の役での熊本城攻防
清正の死後、二代目加藤忠弘が改易となり、寛永9年(1632)細川忠利が次期領主として入城しました。以降、細川氏が大政奉還の日に至るまで、200有余年に渡って肥後熊本の政治を行いました。この細川氏統治の間、熊本城は細かく拡張整備が行われ、それは明治維新まで30年を切った天保年間まで続き、最後の西端の段山郭が完成した時点で城内の櫓は62を数えていたと言われています。以下は、幕末から明治にかけての熊本城古写真。
熊本城古写真1r2熊本城古写真2r2

明治維新後、熊本鎮台が置かれ、老朽化した櫓、多重櫓が破却され、西南戦争前には天守・本丸御殿を中心とした本丸主要部のみ保存されていた状態でした。
西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となりましたが、西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で大小天守及び本丸御殿など多くの建築物が原因不明の出火で消失しました。西郷軍からの熊本城への攻撃が始まると、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え抜き、ついに撃退したと言われています。特に、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったとのことです。二百年も前に建築された城郭が、当時の最新の軍備を備えた軍隊を跳ね返したという、正に名城の面目躍如となる出来事でした。

最後に、熊本城史以外の肥後国入国以降の加藤清正について追記します。

北肥後へ入国以降、文禄・慶長の役で武功を挙げた清正は、文禄の役における明・朝鮮との講和交渉から石田三成との確執が生じ、関ヶ原の合戦では東軍に協力し徳川家康に従いましたが、その一方で、終生、豊臣家への忠誠も忘れませんでした。1611年3月には、二条城における徳川家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋しましたが、帰国途中の船内で発病し、6月24日熊本城内で死去しました。享年50歳。

熊本県においては、「清正公(せいしょこ)さん」として、現在でも種々の史跡や祭りなどにも取りあげられていますが、当時の肥後人の清正への崇敬も強かったといわれています。賤ヶ岳の七本槍や文禄・慶長の役での武功から武人としての面のみが強調されがちですが、肥後国において清正は政治手腕も大いに発揮し、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、農業行政で実績を上げ、得意とする治水以外に商業政策でも良策を実行しました。その当時、ほとんどの大名が単に統治しただけであったのとは対照的に、農業行政などで実績を上げたことが、現在に至る清正への畏敬の念につながっているのです。

1-2.熊本城訪問
熊本城俯瞰図
熊本城外の駐車場に車を止めると、熊本城の西側の行幸坂を北に向かって登って行きます。すると右手に飯田丸五階櫓が見えてきました。
DSC05678.jpg
更に行幸坂を登っていくと頬当御門が右手に見えてきました。ここから熊本城内に入ることになります。頬当御門の左側には、宇土櫓が見えました。城内に入る前に、外から宇土櫓を見上げてみます。
DSC05688.jpgDSC05687.jpg

頬当御門を抜けると直ぐに本丸に到達します。正面に天守閣が見えますが、まず左手側にある宇土櫓を見ることにします。
DSC05695.jpg
この宇土櫓は、青南戦争時も第二次世界大戦の熊本空襲時も奇跡的に延焼を逃れた熊本城の遺構の一つです。
内部に入ると、木材の摺減り具合が長い年月が経っているいるのを実感させます。やはり、本物はいいですね!
DSC05699.jpgDSC05702.jpg
急な階段を上って、最上階へ向かいます。
DSC05703.jpgDSC05704.jpg
宇土櫓最上階から見た大小天守閣。
DSC05709.jpg

宇土櫓を出ると、正面に天守閣が見えます。
DSC05694.jpg

その天守閣を左手側に見ながら復元された本丸御殿へ向かいます。この本丸御殿は平成20年に再建されたものです。
DSC05714.jpg
この本丸御殿への向かい方は面白くて、本丸御殿の下を潜っていくことになります。
DSC05715.jpg
本丸御殿の入り口から中に入ると、最初の部屋は御台所の間になります。2つの大きな囲炉裏(いろり)があり、土間には竃(かまど)などもありました。
DSC05774.jpgDSC05720.jpg
御台所の間の奥は、大広間になりますが、その広さは圧巻です。この大広間は、一番手前が「鶴之間」(60畳)で、奥に向かって「梅之間」「櫻之間」「桐之間」「若松之間」と続きます。
「鶴之間」へ入って奥を見ると、一番向こうに、「若松之間」の障壁画が見えました。
DSC05722.jpg
大広間の左手側に配置されている縁側を通って、「若松之間」の側面に出ます。手前が、縁側から見た「若松之間」で、その奥が、本丸御殿の中で最も格式が高いと言われている、「昭君之間」です。
DSC05728.jpg
縁側を更に進み、「若松之間」を回り込んで、「昭君之間」の側面に出ます。
DSC05730.jpg
この「昭君之間」は、実は「将軍の間」の隠語で、豊臣秀吉子の遺児である秀頼に万が一のとき、清正にはこの熊本城に秀頼を迎え入れ、豊臣秀頼を匿うためのものだったとの説があります。また、昭君の間には、大工の棟梁の語りを記録した「大工善蔵より聞覚控」という古文書から、抜け穴があったとの伝説もあります。

慶長期の特色である鉤上段(かぎじょうだん)を設け、室内は床の間や違棚、付書院などを持つ書院造りとなっています。
壁や襖などには中国の前漢の時代の話で、匈奴(現在のモンゴル)に嫁がされた悲劇の美女、王昭君の物語が狩野派の絵によって蘇っています。
DSC05736.jpg
王昭君は、右から2番目の屏風絵の中で、馬に乗って楽器を抱えた姿で描かれている女性です。
                 王昭君3
楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代中国四大美人の一人とされ、以下のような話が伝えられています。

前漢の元帝の時代、匈奴(現在のモンゴル)が、漢の女性を君主の妻にしたいと元帝に依頼したところ王昭君が選ばれました。実は、宮女たちはそれぞれ自分の似顔絵を美しく描いてもらうため、似顔絵師に賄賂を贈っていたのですが、王昭君はただ一人賄賂を贈らなかったので美女として描かれず、元帝の目に留まらなかったからでした。皇帝に別れを告げるための式で王昭君を初めて見た元帝は、王昭君の美しさに仰天しましたが、この段階になって王昭君を匈奴へ贈る約束を撤回すれば匈奴との関係が悪化することは明らかだったため撤回することは出来ませんでした。その後の調査で、宮女たちから多額の賄賂を取り立てていた画家の不正が発覚したため、元帝は似顔絵師を斬首刑に処したとのことです。

正面の障壁画の上部に、賄賂をもらって美人画を描いている絵師が描かれています。
賄賂画家

格天井には、見事な花の天井画が描かれています。王昭君の障壁画は、構図が文章で記録されていただけでしたので、王昭君について描かれた他の絵画を参考に狩野派の作風で再現されたものですが、この天井画は、幸いにも詳細なスケッチが残されていたため、そのスケッチを元に再現されました。
DSC05732.jpg

これらの障壁画や天井画の復元については、構図の決定から実際の復元作業に至るまでを記録したビデオが御殿内で流されていますので、時間があればご覧になることをお勧めします。

「昭君之間」を過ぎると、杉戸絵が展示されていました。
くすんだ色をしている杉戸が現存のもので、色彩が鮮やかなものが復元したものです。
DSC05749.jpgDSC05746.jpg

上写真の杉戸の画題は「柏に鷲図」で、樹木の守護神である葉守の神が住むといわれる柏と、勇猛な鷲を組み合わせて吉祥的な意味をもたせているとのこと。引手金具の細工も大変美しいですね。

DSC05751.jpg
その後、廊下を歩いて御殿の外へ出ました。

御殿を出ると、目の前にそびえる天守閣に登ってみます。天守閣への登城は小天守側からになります。
DSC05718.jpgDSC05760.jpg

この大小天守閣は昭和35年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、内部は模型展示などの資料館になっています。
DSC05769.jpg

最近行われている熊本城の復元整備計画は、全て木造で行われているので、鉄筋コンクリート造りのこの天守閣は味気なく感じるのですが、当時の最新の技術として鉄筋コンクリート使用による再建が行われたので、これはまぁ仕方がないですね。
DSC05772.jpg
上は、天守から見下ろした宇土櫓。

天守から降りると、御殿の横を通り、不開門と櫓群(田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源乃進櫓)を見ながら東竹の丸へ進みます。
DSC05778.jpgDSC05780.jpg

東竹の丸から見た飯田丸五階櫓。
DSC05787.jpg

東竹の丸から飯田丸へ進む途中で二様の石垣の向こうに天守閣を望みます。しかし、本当にすごい石垣ですね!
DSC05788.jpg

飯田丸五階櫓。飯田丸の南西隅に建つ五階建ての櫓で、熊本城南面防衛の要であり、内部には井戸や台所、鉄砲蔵までも設けられていました。平成17年に木造で復元が完成しました。 内部は見学が可能です。
DSC05792.jpgDSC05793.jpgDSC05794.jpgDSC05795.jpg

飯田丸から竹の丸へ下りて、石垣の向こうの天守閣を望みます。
石垣の積み重なりの向こうに天守閣が見える有名なショットです。熊本城の守りの堅固さが良く表われています。
DSC05808.jpg

名残惜しかったのですが、島原城へ行くためのフェリーの時刻が迫っていたので、これにて熊本城を後にしました。

熊本城の復元整備計画の第一期(下図の1~6)は終了し、現在第二期(下図7~9)が計画されていて、将来的には10~14の復元も予定されています。出来れば、自分が生きている間に、下記の計画が全て実行されて欲しいものです。
復元計画
<短期(第Ⅰ期)計画による復元完成建造物>
1.南大手門(みなみおおてもん)<平成14年10月完成>
2.戌亥櫓(いぬいやぐら)<平成15年8月完成>
3.未申櫓(ひつじさるやぐら)<平成15年8月完成>
4.元太鼓櫓(もとたいこやぐら)<平成15年12月完成>
5.飯田丸五階櫓(いいだまるごかいやぐら)<平成17年2月完成>
6.本丸御殿大広間(ほんまるごてんおおひろま)<平成20年3月完成>

<第Ⅱ期復元整備計画による復元予定建造物>
7.馬具櫓および続塀(ばぐやぐらおよびつづきへい)
8.平左衛門丸の塀(へいざえもんまるのへい)
9.西櫓御門および百間櫓(にしやぐらごもんおよびひゃっけんやぐら)

<今後の復元予定建造物>
10.竹の丸五階櫓(たけのまるごかいやぐら)
11.数寄屋丸五階櫓(すきやまるごかいやぐら)
12.御裏五階櫓(おんうらごかいやぐら)
13.櫨方三階櫓(はぜかたさんかいやぐら)
14.北大手門(きたおおてもん)

(自分は、前回、微力ながら募金に協力しましたが、今後も出来るだけ協力していきたいと思っています。ちなみに、今回自分の名前が書かれた芳名板が天守に掲示されているのを確認して、嬉しかったです!)
DSC05764.jpg

最後に櫓群を竹の丸から見上げた写真。
DSC05814.jpg


2.黒川温泉訪問
時系列的には、熊本城のあとは島原城を訪問しましたが、同じ熊本エリアという括りで、前日に訪問した黒川温泉を紹介してみようと思います。

黒川温泉は2000年以降急激に全国的に有名になった温泉地です。自分は以前、小倉に住んでいましたが、その当時黒川温泉の名はテレビなどのメジャーな媒体では殆ど聞いたことが無く、自分はもっぱら別府温泉もしくは由布院へばかり行っていました。実際、以前の黒川温泉は20数件の兼業農家が営む単なる山あいのひなびた湯治場であり、近くの別府や由布院と言う有名温泉の影に隠れて寂れていたのだそうです。

ところが、そんな中でも後藤哲也氏の経営する新明館だけは客足が絶えることが無く繁盛していました。そこで黒川温泉の復活を賭けて、ほかの宿も、この後藤氏の提唱する”自然との融和”を演出する温泉を目指したところ、温泉街全体が自然に包まれたような風景に生まれ変わり、女性客の口コミから徐々にリピーターが増えて行って、現在の黒川温泉の人気に繋がったとのことです。

以下は、黒川温泉街の風景です。「街全体が一つの宿 通りは廊下 旅館は客室」が黒川温泉のキャッチコピーとのことですが、確かに温泉街全体に静かな湯の町情緒が漂っていて、実にいい感じです。
DSC05621.jpgDSC05626.jpgDSC05635.jpgDSC05637.jpgDSC05642.jpg

黒川温泉は、自然を生かすという点に重きを置いているので24軒ある全ての旅館に露天風呂があり、各旅館とも露天風呂に特徴を持つように、それぞれ嗜好を凝らしています。その露天風呂を数多く楽しむために共通でハシゴできる「入湯手形」というシステムが考案され、それが黒川温泉の人気を更に高めることになりました。
DSC06687.jpg
上が入湯手形で、黒川温泉観光旅館協同組合「風の舎」において1,200円で販売され、自分の選んだ3箇所の温泉に入ることが出来ます。くまもん手ぬぐいは、新明館で買ったものです。

自分はネット上の人気から、新明館、いこい旅館、黒川荘の3軒を選んで見ました。
それでは、日も暮れてきたし、投宿先のチェックイン時間に間に合わすためにも急いでGo!です。

1)山の宿 新明館
黒川温泉の人気を創り上げたともいえる宿で、洞窟温泉が有名です。
流石、人気が高いだけあって、洞窟風呂は良い雰囲気の温泉でした。自分が洞窟風呂へ入浴した際、偶然、他の入浴客が誰もおらずゆったりとした気分で、この温泉につかることができました。
DSC05655.jpgDSC05658.jpgDSC05659.jpg

2)いこい旅館
旅館建物の前には囲炉裏の間などがあって非常に良い感じです。
DSC05645.jpgDSC05649.jpg
純和風な雰囲気が実に良かったです。

3)黒川荘
露天風呂の美しさが有名な宿です。
黒川荘
(上写真は、黒川荘様HomePageから転載させて頂きました)

しかしながら、今回時間が無くてお風呂に入ることが出来ませんでした。残念!

下は、三軒目に入湯出来ずシールが1枚余ってしまった入湯手形。スタンプも新明館といこい旅館の2つだけです。
DSC06689.jpg

次回は、もっと時間的余裕を持って訪れたいと思っています。


PS1.ゲストハウス ASORAとASO BASE BACKPACKERS
大晦日の12/31と元旦の1/1は、阿蘇山の麓にあるASORAとASO BASE BACKPACKERSというゲストハウスに宿泊しました。

1)ゲストハウスASORA
DSC05402.jpg
ASORAには、大晦日の12/31に宿泊しました。深夜にASORAのご主人が作った年越しそばを食べた後、近所の寺へ除夜の鐘を突きに行きました。
年越しそば除夜の鐘
除夜の鐘を突くのは生まれて初めての経験です。その後、お寺に参拝して赤酒という新年にしか飲まれない地元の甘いお酒を、お寺で飲ませて頂きました。

元旦の朝は、ASORAのご主人が運転する1Boxカーで阿蘇山の大観峰まで初日の出を見に連れて行ってもらいました。
IMG_1084.jpg
大観峰で日の出を待つ大勢の人々。
IMG_1089.jpg
横を見ると、他にも人がたくさん。
IMG_1097.jpg
遠くに太陽が顔を出すのが見えてきました。人生初の初日の出を撮った写真。この時の写真は旅行中にブログにもアップしましたが、それからからすでにもう2ヶ月も経ってしまいました。本当に時が経つのは早い...
ASORAでは、人生初の経験をたくさんさせて頂きました。改めて、ASORAのご主人にお礼を申し上げます。

2)ゲストハウスASO BASE BACKPACKERS
DSC05671.jpg
ASO BASE BACKPACKERSには、1/1に宿泊しました。このASO BASE BACKPACKERSは自分が今までに宿泊したゲストハウスの中で一番綺麗なゲストハウスでした。

これらの2つのゲストハウスに宿泊した際、自分は偶然一人の韓国人青年と両方のゲストハウスで同室になり、結構親しく会話を交わしました。彼は非常に朴訥で真面目な性格で、BACKPACKERSに宿泊した際は、酒を一緒に飲みながら韓国での大企業への富の集中の問題や、南北の統一のことなどの話をしました。お互いがつたない英語を使っての会話なので、どれだけ正確に理解しあえたかはかなり怪しいですが、おそらくお互い性格的にウマが合っていたのか、お堅い内容の話でも結構楽しく会話ができました。
実は、彼と会う前は、2日後に行くことにしていた軍艦島ツアーで、添乗員の人に他のツアー客のいる前で、世界遺産登録の時に、韓国が登録を決める投票直前に、とんでもない横車を入れてきた件についてハッキリ聞こうと思っていたのですが、何だか出鼻をくじかれ止めてしまいました。この件を、人前でハッキリ聞くことは、その場の空気をかなり悪くしてしまう可能性が高かったので、彼との出会いは天佑だったのかもしれません。

しかしながら、こういう韓国の真実を無視する言いがかりについて、ハッキリとした態度を取らず、曖昧にしてきたことがここまで韓国との関係をおかしくしてしまったのは間違いないと思うのです。相手が、真実を捻じ曲げて言いがかりをつけてきているのなら、それは真実ではないとハッキリ言うべきで、それを、韓国人の言うことに反論するのは人種差別だなどという、理性的でない人々の中傷(有り体に言えば脅し)に気兼ねして黙るべきではないのです。

これについては、軍艦島のことについて記事をあげるとき続きを書くことにします(の予定です。この話をすると気分が落ち込むので、書かないかもしれません...)

岡城・阿蘇神社訪問

新装置の為の初回打ち合わせが終わったと同時に、この前やっと据付が終了した装置上で第2回目の生産が開始され大きなトラブルもなく終了することが出来た。これでほっと肩の荷が下りたし、恐らく土曜日の臨時出勤はしばらくは無いと思うので、やっと仕事に終われる日々とおさらば出来そうだけれども、まだ残件が残っていてあと少し頑張らなければいけないようです。でも、最後の頑張りのところまできています。

さて、冬休みに行った九州旅行の話を、流石に2ヶ月以上引っ張りたくないので、とにかくUpdateを頑張らなければ!

...と言いながら、相変わらず土曜日はぐったりして、日曜日はガルパン劇場版4DXを見に豊川というかなり遠いところまで出かけて(豊川を豊田だと直前まで勘違いしていて、えらい目にあいました)さらにぐったりしてしまい、自分のノルマにしていた最低週1回Updateの目標をあっさり破ってしまったのが情けない...って、確かガルパンがらみのこのパターンはつい3週間前にもあったような気が。う~ん...。

まぁ、過ぎたことは仕方がないので、気を取り直して今回は、阿蘇周辺の史跡めぐりということで、大分県竹田市にある岡城址、そして熊本県阿蘇市にある阿蘇神社への訪問を書いて見ます。

1.岡城訪問(大分県竹田市大字竹田)
熊本から別府方面へ抜ける国道57号線を東に向かって進み、阿蘇山の南側をかすめ更に東へ20km程進むと、山間の静かな城下町竹田市に到着します。岡城は竹田市の東方にある天神山の山頂に築かれ、大野川の支流である稲葉川を北に、白滝川を南に配する自然の濠を持った堅城で"日本三険城の最上"などと紹介されることもある城です(但し、この日本三険城のうち他の2城は確定しておらず、岡城の難攻不落さをあらわす一種の形容詞的なもののようです)。

1)岡城の歴史
岡城の始まりは、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって古くからあった山城が拡張され、岡城と名付けられたと言われています。
この岡城を一躍有名にしたのが、天正14年(1586年)、薩摩の島津氏が九州全域を配下に置こうと豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し最後まで落城しなかったことで(一説によると、三万七千の薩摩軍をわずか千名の兵で撃退したとも言われていますが、それは流石に誇張なのでしょう)、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けています。これが、岡城を"日本三険城の最上"と言わしめる故事となっています。

しかし、豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなってしまいました。そして翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施し二の丸・三の丸を整備しました。 その後中川氏はこの地を動くことなく、明治をむかえました。

2)岡城訪問
国道57号線を竹田市街手前で分岐し、国道502号線で岡城の南側から岡城駐車場を目指します。やがて左手側に本丸石垣が見えてくると胸が高鳴ります。ちょうどその時車が路面の細かい凹凸を拾って音を出し始めるので驚きましたが、その音をよく聞いて見るとそれは雑音ではなくメロディになっていて、昔、小学校で習った滝廉太郎の"荒城の月"であることに気が付きました。
実は、荒城の月に出てくる古城は、この岡城のことで、作曲者の滝廉太郎は、竹田市出身の人なのです。それゆえ、岡城近くの道路には、このようなちょっとした仕掛けが仕込んであるのです。

さて、岡城前の駐車場について見ると、真正面には西の丸の石垣が聳えているのが見えていやがおうにも古城探訪への気持ちが高ぶります。
岡城_1
ここの入場券販売所で入場券の支払いと案内書をもらえるはずなのですが、さっき駐車場の入り口に年末年始無料の旗が立っていたのでイヤな予感がしていたところ、案の定販売所は年末のお休みで100名城スタンプも押せないと言うことになりガックリ...

福岡城に次ぐ2回目のスタンプ押せないトラブルなのですが、本当にもし、ちゃんと観光のことを考えているのなら、休みの間、駅の構内もしくは観光課などに100名城スタンプを預けることを真剣に考えてください。実は、100名城の中には、入場料を払わないお城も含まれていて、そういうお城では城内のちょっとした休憩所に盗難防止用に鎖で縛る等の工夫をして、タンプが用意されたりしているので、岡城や福岡城も同じ工夫が出来ると思うのです。是非、来城した人をがっかりさせない工夫を考えて欲しいと思っています。

さて、落ち込んでばかりいてもしょうがないので、駐車場から大手門のほうへ歩いていきました。
岡城_2
大手門の入り口が見えて来ました。すごい石垣だなぁ。
岡城_3_3
登城道をどんどん登っていきます。
岡城_4岡城_5
やっと大手門石垣が見えて来ました。この大手門石垣だけみると西洋のお城みたいですね。また、登城道の崖側の壁の上部は丸くかまぼこ状なっており、これも沖縄風の異国情緒が漂う造りになっています。
岡城_6
城内側から見た先ほどの大手門。

さて、城内に入り右手側へ行くと本丸へ、左手側に進むと西の丸へ行きますが、まずは西の丸から巡ってみます。
以下の俯瞰図から見ると、図面左下の大手門から左方向へ西の丸へ歩いていくことになります。
(この俯瞰図は、いつものように余湖様のホームページから転載させて頂きました。)
岡城_7岡城俯瞰図
西の丸。
岡城_8
西の丸の石垣。駐車場から見上げた石垣はここになります。
岡城_9
西の丸から本丸方向へ進んでみます。
岡城_10
三の丸手前の櫓門(西中仕切り門)前。
岡城_11
ここから見る三の丸及び二の丸北側の石垣が、城郭の本にもよく掲載されるアングルの写真です。本当に素晴らしい高石垣ですね。
岡城_12
西中仕切り門を抜けると直ぐ三の丸櫓門(太鼓櫓門)が見えます。
岡城_13
この三の丸櫓門を抜けると、左手側が二の丸、そして正面に本丸の石垣が見えて来ました。この主要部である三の丸、二の丸、そして本丸はとても狭く密集しています。
岡城_14
二の丸へ入る脇から本丸への階段を上っていきます。
岡城_15岡城_16
本丸到着。本丸は、長手方向が50m程の角形で、本丸の南西端に本丸から見ると殆ど高さの無い天守台があります。ここにはかつて三層天守が存在し、他に二重櫓、御金倉などが建っていました。下は、かつての岡城の古写真です。
岡城_17岡城古写真
本丸を西に進んでいくと天満神社の社が見えました。
岡城_18
小さなお社ですが、御祭神が菅原道真公で、かつ岡城は落城しない城=落ちないということで、結構受験生に人気がある神社とのことです。みんなこういうことを良く思いつきますね!

さて本丸を降りると、本丸北側の二の丸の方へ廻ってみます。二の丸の一角には滝廉太郎の像が建っていて、背後の山並みとのコントラストが美しく、絶好の像を背後にした撮影スポットと言う感じでした。
岡城_19
下は、先ほど見た二の丸から見た三の丸の石垣です。先ほど西中仕切り門前から見た石垣を、逆側から見ることになりますが、相変わらずこの石垣は素晴らしいですね。
岡城_20
そして、二の丸側から見た家老屋敷側の石垣。今度はあちらへ行くことを目指します。
岡城_21

三の丸を出ると西の丸の北側を通って家老屋敷側へ歩いていきます。
岡城_23岡城_25
家老覚左衛門屋敷の跡。ここでは面白いことに屋敷の床の平面だけがが復元されていました。
これは中々面白い試みではないでしょうか。
岡城_26

家老屋敷側から、本丸側を望みます。
岡城_26_2
その他の家老屋敷側へ移動してみます。
岡城_27岡城_28

西の丸北側の家老屋敷跡。
岡城_29岡城_30

家老屋敷西側の搦手門の石垣。
岡城_31

その後、西の丸を南側から眺めながら大手門へ戻り、その後駐車場へ向かいました。
岡城_33

今回は、これにて岡城を後にしましたが、スタンプを押せなかったのでもう一度ここに来なければなりません。
まぁ、何度も訪れたくなる名城だし、竹田市街も巡って見たお所があるので、再訪するのはいいのですが、簡単に来れる場所ではありませんので、後回しにはなるでしょうね。参ったなぁ...

最後に、豊後竹田駅に寄って落門の滝と言うのを見てみました。実は、豊後竹田駅は、日本でも珍しい滝の近くにある駅なのです。
DSC05518.jpgDSC05522.jpg

そのほか、竹田市には世界でも類を見ない炭酸濃度の高さを持った長湯温泉という温泉があり、そこには是非行って見たいですね。武家屋敷が残る古い街並みもあるので、次回に竹田に来るときは、じっくりと時間を取って来てみたいですね。


2.阿蘇神社訪問(熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1)
今回の九州旅行では、阿蘇神社へ初詣に行ってきました。今頃初詣のネタなんて本当に遅すぎ...

1)阿蘇神社の社史
阿蘇神社は、紀元前282年、第七代、孝霊天皇のころ、燃え盛る阿蘇山の開拓の為に使わされた「健磐龍命(タケイワタツノミコト)」(神武天皇の孫にあたる)を主神として、お妃の阿蘇都媛命(アソツヒメノミコト)阿蘇初代国造の国造速瓶玉命(クニノミヤツコハヤミカタマノミコト)を含む十二神を奉ったことが始まりとされています。阿蘇神社としての創建は第12代景行天皇が国造速瓶玉命の子である惟人に命じて創建させたと伝えられます。

阿蘇山火口にあります阿蘇山上神社が上宮で、一の宮町にあります阿蘇神社は下宮とされますが、噴煙で怒り狂う阿蘇山をおろがみて、鎮めの為の祭祀を行う場所でもありました。

この一ノ宮にある阿蘇神社は、全国に約450社ある阿蘇神社の総本社であり、古代からの有力氏族である阿蘇氏が現在も大宮司を務めています。現在の大宮司は、阿蘇家の91代目が務めています。

2)祭神
以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称されています。

一の神殿(左手、いずれも男神)
一宮:健磐龍命 - 初代神武天皇の孫という。
三宮:國龍神 - 二宮の父で、神武天皇の子という。
五宮:彦御子神 - 一宮の孫。
七宮:新彦神 - 三宮の子。
九宮:若彦神 - 七宮の子。

二の神殿(右手、いずれも女神)
二宮:阿蘇都比咩命 - 一宮の妃。
四宮:比咩御子神 - 三宮の妃。
六宮:若比咩神 - 五宮の妃。
八宮:新比咩神 - 七宮の娘。
十宮:彌比咩神 - 七宮の妃。

諸神殿(最奥、いずれも男神)
十一宮:國造速瓶玉神 - 一宮の子。阿蘇国造の祖という。
十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。第2代綏靖天皇を指すという。

3)阿蘇神社への初詣
阿蘇山の南、国道57号線沿いに阿蘇神社はあります。車を臨時駐車場へ置くと、表参道のほうへ歩いていきます。
DSC05406.jpg
北鳥居を潜ると表参道を歩いていきます。実は、阿蘇神社は全国でも珍しい横参道で、正面遠方には反対側の南鳥居が見えました。この横参道を左手側に阿蘇神社を見ながら進んで行くと、右側に下写真のような手水舎が見えて来ました。
DSC05413.jpgDSC05411.jpg  
この手水舎は「神の泉」と呼ばれていて、その横に伸ばされた青竹から水がとうとうと流れていました。「神の泉の由来」という説明書きには「一の宮町はむかしより地下水の噴出する[清泉の町]として知られております。とくにこの神域に湧き出ずる水は美味芳醇な神の泉として珍重され、不良長寿の水として多くの人々に飲用されています。」と書かれていました。

この手水舎で手を清めた後、背後を向くと、そこが阿蘇神社の正面でその入り口に大きな楼門があります。
DSC05414.jpg
この楼門は仏教的な要素を取り入れた二層楼山門式と呼ばれる様式で造られ、高さは何と21mもある巨大なものです。この様な建築様式の楼門は他の神社に例が無く、その希少性から日本三大楼門の一つとされています(その他は茨城県の鹿島神社、福岡県の箱崎宮の楼門が日本三大楼門と呼ばれています)。
DSC05416.jpg
また、そこに掲げられる「阿蘇神社」と書かれた額は、明治維新で活躍された有栖川熾仁親王による御染筆とのことです。

この楼門を潜ると、正面にある拝殿と対面することになります。この拝殿の奥に、一の神殿、二の神殿そして諸神殿が鎮座されていますが直接拝することは出来ず、正面の拝殿の向かって左側の一の神殿の拝所及び右側に二の神殿の拝所から拝することになります。
DSC05419.jpg

拝殿での参拝を済ますと、年初めのおみくじを引いて見ます。自分は初詣で引いたおみくじをその年の運勢としてきているので、毎年気合をこめて初詣のおみくじを引いています。
DSC05427.jpg
さて、今年の運勢は...何と大吉でした!今まで、初詣のおみくじで大吉を引いたことは無かったので、今年は期待できるというより、頑張ってこのおみくじの通りにしたいですね!

さて、この阿蘇神社の境内には、拝殿へ参拝する以外に以下のような面白い言い伝えのようなものがあります。

高砂の松(えんむすびの松)
この松のまわりを女性は右回り、男性は左回りに2回まわると良縁に恵まれると伝えられています。
これには以下のような縁起があるとのことです。
”上京途中の神主友成(阿蘇神社宮司)が名所高砂の浦に立ち寄ると、媼が浜の松葉を掻き清めています。そこで離れたところに生えている高砂の松と住吉の松が相生の松といわれる由緒を尋ねると、山川を隔てるとも夫婦の愛は通いあうものと答え、自分は相生の松の精であると告げ、住吉で待つと舟に乗って去ります。
友成も住吉に至ると、住吉明神が現れ、御代を祝って舞う姿を拝することができた。”
DSC05421.jpg
自分が初詣に行った日にも、若い女性の方が数人連れ立って回っていました。こういうのは女性の方がやっているのは微笑ましく感じますが、男がやっているのは...あまり見たくないなぁ。これは差別じゃありませんよ?

願かけ石
阿蘇大明神(建磐龍命)がもろもろの願いを込めて拝まれた「霊場の岩石」のひとつで、古くから神石として伝わってきたありがたい石とのこと。
作法は、「まず心に願い事を念じ、この神石を3度撫で、さらに願い事を唱えるとよい」とされています。
高砂の松の印象が強すぎて写真撮るのを忘れました。一応上記写真で、高砂の松の左奥に写っています。

DSC05424.jpg
その後、甘酒を飲んで阿蘇神社を後にしました。


3.稲積水中鍾乳洞
岡城、阿蘇神社と行った後、ちょっと時間が余ってしまってどうしようかと思っていたところ、前日宿泊した阿蘇羅というゲストハウスの宿泊客の方から、水中鍾乳洞というのがあるので行ってみてはどうかと言われたのを思い出しました。ただ、その方自身も行ってみたことは無いとのことで、お勧めすることはできないけれどとも言っていた場所なので、どうしようかと悩みましたが、もうひとつの候補の黒川温泉はここからかなり遠いので、この稲積水中鍾乳洞へ行ってみることにしました。(今考えれば、この時、黒川温泉もしくは長湯温泉に行っておくべきだった...)

稲積鍾乳洞は、岡城の前を通る国道502号線を岡城からさらに東へ一時間ほど行き、そこから県道45号で南へ少し入ったところにあります。

駐車場に車を停車し、券売所の方へ歩いていくと、そこは思ったよりも大きな建物で、どうもここは鍾乳洞の見学だけではなく、いろいろなテーマパークの合体施設のような所でした(実際、鍾乳洞以外の施設の印象の方が強烈でした)。
DSC05525.jpg
何となく、田舎の秘宝館のような胡散臭い雰囲気が思いっきり漂っていましたが気にしないことにしてLet's go!です。だって、もう到着してしまったのだから仕方がない。それでは、入場券を買って鍾乳洞へいざ出発!
           DSC05527.jpg
鍾乳洞入口前。ここの雰囲気は中々よかったです。
DSC05530.jpgDSC05531.jpg
最初は新生洞のほうへ行ってみます。
           DSC05533.jpg
新生洞の最深部。この派手なライティングは意外と鍾乳洞の雰囲気と合っていて良かったです。
DSC05541.jpg
こちらは水中洞側の最深部。水の青さが印象的でした。
DSC05559.jpgDSC05560.jpg

鍾乳洞の中は、思ったより広く、そして思ったよりよく整備されていました。ただ、残念なことに典型的な鍾乳石といったものがあまりなく鍾乳洞としての迫力に欠けるといいますか、ありていに言えば単なる洞窟っぽい感じがしてしまうところがイマイチでしたね。

ただ、それは山口県の秋吉台や、岩手県宮古の龍泉洞などに比べればちょっと見劣りするというくらいで、全くダメとかいう意味ではありませんので念のため。

さて、鍾乳洞から出てくると、出口はそのまま昭和タイムトリップ館に繋がっています。
このタイムトリップ館は無料で拝観できますが、こちらは意外と凄かったです。下はこの博物館の入口です。
かなり多くの人は入口に書かれている文字をストリップと読み違えるハズ...
DSC05563.jpg
もちろんこれは、タイムトリップと書いてあります。
DSC05565.jpgDSC05566.jpgDSC05567.jpg
料金は無料とのことなので、個人的なコレクションをただ展示しているだけということなのでしょうが、量もすごいし展示の仕方も、昭和の店先を再現するという凝り方で、しかもその再現率がかなり高いのです。いや、これは中々大したものです!
DSC05569.jpgDSC05571.jpg
うわ、これはもの凄く懐かしい。この当時宇宙戦艦ヤマトにハマっていた自分は、この戦艦大和の巨大プラモデルが欲しくて、おもちゃ屋に行ってはよく眺めていましたっけ。しかし、本当に昔は、こんなプラモデルしか無かったんだよなぁ。
DSC05579.jpgDSC05573.jpg  

最後に、この昭和タイムトリップ館を出ると、なんと出口は昔の映画館の形をしています。凝ってるなぁ~。
DSC05580.jpg

この昭和タイムトリップ館を出ると、そこは仏の里とかいう庭園になっていて、まぁ何というか本当に胡散臭かったです。庭園のあちこちに仏像(というかちゃんとした仏教に基づく仏像には見えないのいので創作仏像というべきもの?)が置いてあって、それはどんな形の仏像でも自分は全く構わないのですが、その全ての創作仏像の前に浄財と書かれた箱が置かれているのがちょっとなぁ...。これ、例えば誰かが間違ってこの箱の中に賽銭のつもりでお金を入れてしまったら、この庭園の管理者はその金をどうするつもりなのでしょうか。もし、この庭園の管理者が、賽銭箱のつもりでこれらの像の前に浄財と書かれた箱を置いたならば、そこに入っていたお金は宗教活動のために使われなくてはなりません。でも、これらの像が正統派の仏像には見えないので、ちゃんとした宗教活動に使われるようにはちょっと思えないのですよね。まぁ、実は、この仏の里が、新手の宗教法人に管理されていて、これらの仏像は全て、その新興宗教に属しているということなのであれば、入れられたお賽銭はこの庭園の管理に使われると言うことで筋は通るとは思いますけれども。でも、それならばちゃんと、その新興宗教名を明示して、こんな見ようによっては既存の仏教にも見えるようなあやふやな展示の仕方をせず、既存宗教とは別であることをはっきりさせてもらいたかったですね。

でも、もし本当に、これらの創作仏像が新興宗教のものであるならば、最近のニーズにちゃんと答えるという布教方針は中々うまいと感じました。例えば、下はペットのための仏像。しかも犬用と猫用に分けて、左右にそれぞれの仏を従えているのだからぬかりはありません。
DSC05590.jpg

また、下は、ぼけ封じ観音。う~ん、これもうまい!もし、この観音像の力でボケが封じられるのならば、自分でもお賽銭を入れたくなってしまったくらい。
DSC05598.jpg

そして、広場の中央に鎮座しますのは、高さは6mはあろうと思われる黄金の大観音像です。これだけの大きさですから、この仏の里のどの位置からも見ることが出来て、正にこの仏の里の支配者たる貫禄十分の像です。でも、いくらなんでも竜と一緒の観音像というのはちょっとなぁ...。
DSC05591.jpg
台座の横には成田山大分別院など書いてある札が掛けてあって如何にも千葉の成田山と関係がありそうなことを装っているにも拘らず、胡散臭さが一目瞭然な竜と一緒の像にしてしまうのかがまるでわからん...。あまりに人を騙すようなフェイクな像ばかりだと気がとがめて偽者であることが丸分かりになる竜を良心として入れて見たのか、はたまた観音の女性的な穏やかさには竜の荒々しさが似合うと像の製作者の芸術魂が炸裂してつい竜を加えてしまったのか...

まぁ、そんなことを考えてもしょうがないし、こういうのを馬鹿にするような趣味も持っていませんから、何だかこのようなフェイク仏像を見ているうちに、段々と気分が落ち込んできてしまいました。しかも、まだ時間は午後3時でさんさんと日光が照っており、このまま何もせずに宿に向かうのは、負けたまま一日が終わるような気がしてきて、どうしようかと悩みましたが、もう開き直ってここへ来る前に却下した黒川温泉へ行って見ることにしました。そうと決まれば、時間が無いので躊躇せずにGo!だ。

この後、黒川温泉へ出かけるのですが、また、例によって長くなってきてしまっているので、それは次回Upすることにします。

以下は、稲積鍾乳洞から黒川温泉へ行く途中の阿蘇山の光景。
DSC05603.jpgDSC05606.jpgDSC05616.jpg
悠久な時の流れを感じさせる雄大な自然の大パノラマ光景でした。

大野城・太宰府天満宮訪問

新装置上での生産も何とか無事に終わって一安心したのですが、生産中に出たトラブル解決のために、本日土曜日も出勤し、現時点ですでに来週の土曜日出勤が確定しています。何だか全然休めないなぁ...。でも恐らく3月からは逆に思いっきり暇になりそうで、ちょっと極端すぎますね。それはともかく、明日の日曜日で何とか記事をUpせねば!...と土曜日の時点では思っていたのですが、日曜の午前中は爆睡して起きれず、午後からは、ダブル生コマフィルム配布という来場特典に目が眩んで4回目のガルパン劇場版を見に行ってしまい、そのせいでブログのUpも遅れてしまうというダメっぷり。全く何やってんだか...。

九州旅行3日目は、福岡県大宰府近郊にある大野城と太宰府天満宮へ行って来ました。大野城は福岡県太宰府市に隣接する大野城市にあるのですが、市名をこの大野城からとっているため、カーナビで大野城を検索すると色々な箇所にヒットして、最初は全く別の場所に案内されてしまい参りました。その後何とか大野城跡に辿り着いたのですが、この日は朝から雨が降り続いていて、計画していた大野城全周を徒歩でぐるりと歩いて周ることは結局断念する羽目になってしまい、何だかこの日は色々残念でしたね。

1.大野城訪問(福岡県大野城市宇美町)
1)大野城の歴史
斉明天皇6年(西暦660)、朝鮮半島では日本の友好国百済(くだら)が唐(とう)・新羅(しらぎ)連合軍によって滅ぼされました。日本は百済を救うために大軍を派遣しましたが、天智天皇2年(663)、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗し、日本軍は撤退しました。
 
以後、唐・新羅の侵攻に備えて、大和朝廷は国防体制の充実を急ぎ、まず、北九州沿岸に防人(さきもり)を配備して海岸線の守備を強化しました。次に大和朝廷は、当時、大陸との玄関口という役割を担っていた地方行政機関であった太宰府を防衛するために、天智天皇3年(664)水城(みずき)を築き、翌年の天智天皇4年(665)には、亡命百済貴族の憶礼福留(おくらいふくら)、四比福夫(しいふくぷ)に命じて大野城を築かせました。それゆえ、この城は当時の朝鮮山城の技術を使って作られており、朝鮮式山城とも呼ばれています。

2)大野城の構造
大宰府政庁の北側に位置する四王寺山は中心部が盆地のようにくぼんでおり、その周囲をぐるりと取り囲むように尾根が走るという、いわばすり鉢状の地形を成しています。大野城はその環状の尾根に沿って土塁を巡らして城壁とし、その土塁の内側に建物を配置するという構成を取っています。この四王寺山を取り囲む土塁は極めて長大で、その長さはおよそ6.5キロメートルになり、二重に築かれた部分も含めると土塁の総延長は8キロメートル以上にも及びます。大野城に設けられた城門ははっきり確認されているだけで四ヶ所。南側の土塁には大宰府口、坂本口、水城口の門が、北側の土塁には宇美口が設けられました。
DSC05334.jpg

・大野城の土塁
大野城の土塁は、7世紀後半に中国よりつたわった技術である「版築」工法でつくられました。この版築工法というものは、丸太材と板材をくみあわせて外枠を作り、その中に性質の異なる土(粘性土と砂質土)を広げ、固くつきかためながら一層ずつ盛り上げ、最後に木材を外して土の壁とする方法です。この工法で築かれた積み土は大変安定していて、大野城や水城跡の土塁は1300年以上も保たれているのですから、当時の中国の技術水準はすごく高かったのでしょうね。
a0155661_1956546.jpg
上は、版築工法の模型。性質の違う層を積み重ねて作られているのがわかります。これは、現代の池築堤方法と全く同じとのことです。

・大野城の石垣
大野城の土塁は尾根に沿って築かれていますが、中には尾根を分断するような谷間もあります。そのような所では土塁の代わりに石垣が積み上げられました。大野城では、大石垣、水の手石垣、百間石垣、北石垣、小石垣の計五ヶ所に石垣が築かれましたが、その中で最も有名なのは、百間石垣と呼ばれる石垣です。大野城の北口にあたる宇美口に築かれたこの百間石垣は、全長が約150メートルと大野城の石垣の中で最も規模が大きいもので、石垣の内部には栗石を詰めて水はけを良くし、また石垣の下には地下水を逃がす吐水口も設けられていました。
DSC05356.jpg
上写真は、百間石垣に設けられた吐水口。水に配慮した当時の大陸の高い技術水準を窺い知ることができます。

3)大野城訪問
途中、ナビが付いているにも関わらず道に迷うというトラブルがありましたが、何とか大野城前の駐車場に到着しました。場所は、大野城全体図から見ると、大宰府城門付近になります。大野城の土塁跡はピクニックコースにもなっていますから、ここから反時計回りに歩いて大野城を巡ろうとしていたのですが、生憎の雨天でそれは中々難しそうでした。参ったなぁ...

とりあえず、気を取り直して、傘を差しながら土塁のほうへ向かいました。
DSC05317.jpgDSC05318.jpg
すると、上写真のような素晴らしい光景が目の前に広がりました。この土塁が1300年も前に作られたなどちょっと信じられませんね。
DSC05321.jpg
しかし、更に歩いていくと、益々雨脚が激しくなり濃い霧もかかってきたので、今回は残念ながら大野城を歩いて一周するのを諦めました。次回はリベンジで、是非、大野城を徒歩で巡ることで堪能したいですね。

先に進むのを諦めて、駐車場まで戻ると、今度は大野城の土塁を少し右回りして、大宰府城門の方へいって見ました。
DSC05322.jpg
案内の札に従って土塁を下っていくと大宰府口城門跡が見えてきました。でかい!
DSC05324.jpgDSC05326.jpg
城門跡の裏側の石垣。写真ではサイズ感が伝わりにくいのですが、想像以上の大きさでした。
DSC05331.jpg
大野城についての全体の印象は、とにかく全てが巨大であるということです。土塁もこの城門もそうですが、とても、地方豪族が作れるような大きさの城ではなく、そうとう数の人夫を動員して国家的規模で造成された城であることが実感出来ます。

次は、車で百間石垣まで移動します。大宰府口城門付近の駐車場から車で5分ほど移動すると左手側に百間石垣が見えてきます。

このアングルから見た百間石垣は、よく大野城の紹介で使われる写真に示される百間石垣と同じですね。そうか、実際はこんな感じなのか。
DSC05383.jpg
車から降りて、石垣に近づいていくと、百間石垣の前には小さな小川が流れているのが見えました。
DSC05342.jpg
更に石垣に近づいて見ます。
DSC05350.jpg
左翼の石垣。積み方は確かに荒いですが、1300年間崩れないでそのまま残っているのは凄いことだと思います。
DSC05353.jpg
先程も紹介した石垣の下の吐水口。

今度は石垣前の小川を下流側に沿って歩いて行くと、きつい傾斜を上っていく小さな階段があり、その上にも石垣が見えました。これはすごい。
DSC05339.jpg
もちろん、迷わず上っていきます。
DSC05361.jpg
そして、やっと石垣の下に到着。本当にすごいところに石垣を作るなぁ。
DSC05362.jpg

石垣に沿って歩いてみます。
DSC05365.jpgDSC05368.jpg
石垣の間からホースの様なものが突き出して排水していますが、ホースの上に積んでいるのは石垣ではなく土嚢で、一時的な補修をしているようです。

この石垣から下を見てみます。
DSC05378.jpgDSC05379.jpg
本当にこんな高いところによくこのような石垣を築いたものです。

さて、大野城を離れる前に大野城駐車場の近くにある福岡県立四王寺県民の森管理事務所で100名城スタンプを押したかったのですが、そこへ行って見ると、またもや年末のため休館であることがわかりました。もはや万事休す...かと思いきや、よく見ると張り紙がしてあって、100名城スタンプは、大宰府駅内の観光課で押すことが出来るとのこと。いや~、実に嬉しい気配りですね!福岡城でもこういう気配りをお願いしたいものです。
DSC05384.jpg
早速、大宰府駅へ行って、スタンプをGetして来ました。九州上陸後初スタンプです!

2.水城(みずき)訪問(福岡県太宰府市・大野城市・春日市)
水城(みずき)は、664年(天智3年)に、大和朝廷の地方行政機関である大宰府を守るために作られた土塁です。大宰府は九州を統べる行政機関としての役割のみならず、大陸の玄関口として海外交易や防衛の拠点という非常に重要な役目も担っていましたが、それは同時に大陸からの脅威にさらされやすい場所にあるとということも意味しました。そのような大宰府を大陸の脅威から守る城壁として作られた水城の大土塁は、基壇の幅約幅80メートル、土塁本堤の高さが約13メートルであり、その全長はなんと1.2キロメートルにも及ぶ極めて巨大なものでした。

1)水城の歴史
7世紀中頃の朝鮮半島では百済(くだら)・新羅(しらぎ)・高句麗(こうくり)の三国が抗争を繰り返していました。また、中国を統一した唐(とう)は朝鮮半島にまで支配の手を延ばそうとしてる状況にありました。
660年、唐は新羅と手を結び、百済に攻め入りました。同年7月、百済王は捕らえられ百済は滅び、百済の遺臣は倭に百済の滅亡を伝えるとともに、救援軍の派遣を要請してきました。

それに応えた大和朝廷は、百済への2回の派兵を行いました。1回目の派兵は661年に行われましたが、大きな戦果は得られませんでした。しかし、663年に行われた派兵は、2万7千人から成る大部隊で、兵士の動員は西日本だけでなく、東日本にも及び、国家的な戦時体制が敷かれました。

第2回の百済救援軍は8月、錦江(きんこう)河口の白村江で、唐・新羅の連合軍と衝突します。戦闘は4度にわたり繰り返され、この戦いで倭の水軍は大敗北をしてしまいました。これが白村江の戦いです。倭の軍は百済の亡命貴族を伴い退却しました。
この敗戦を受け唐が攻め込んでくるのではないかと危惧した大和朝廷は、まず最初に狙われるであろう大宰府を守ろうと、博多平野から大宰府へと入るその入口の平野部に長城のような巨大土塁を築くことにしました。その作業は大急ぎで進められ、翌664年に水城は完成し、さらにその翌年の665年には大宰府背後の四王寺山に大野城が、大宰府南西の基山に基肄城が築かれて、大宰府の守りは徹底的に固められました。
1082780_673078179386151_2042229009_n_1.jpg

上図を見ると、水城と大野城が大宰府政庁への守りであることが良く分かります。

しかし、これほどの規模を持つ水城や大野城が整えられながらも、結果的に唐が攻め込んでくることはありませんでした。白村江の戦いが終わった当時まだ、高句麗は健在で、唐にも新羅にも対高句麗の方が重要で、日本に攻め入る余力は無かったからでした。

2)水城の構造
水城の大土塁は当時の最先端土木技術をもって作られました。まず土塁を築く前の基礎工事では、敷粗朶(しきそだ)という工法により緩い地盤を強化しています。これは地面に樹木の枝や葉を敷き詰めるというもので、地盤沈下や地すべりを防ぐために施された工法です。次に基盤の上に築かれた土塁ですが、これは木の枠に土を詰めて棒で突き固め、それを何層にも重ねて高くする版築(はんちく)工法によって築かれました。版築は大陸から伝わった土壁の造成技術であり、非常に高い強度を持つ大変優れた技術でした。翌年築城された大野城も同じ工法を使って建てられました。

mizukidannzu11.jpg
『日本書記』には、「大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城といふ。」と記されています。それを裏付けるように、発掘調査により濠と木樋が発見されました。
この水濠は敵の侵入を防ぐためのもので、その深さは4メートル、幅は60メートルであり、水は大宰府から水城を経て福岡湾に流れる御笠川から引かれていました。川の水は一旦土塁の内側(大宰府側)に溜められた後、土塁の下に埋め込まれた木樋(もくひ)と呼ばれる導水管を通って濠に供給される仕組みでした。
このように、水城の大土塁は当時最先端である非常に高度な土木技術で作られたもので、現在でも土塁はその姿を留めています。
landmark50bd8cfc63cbc.jpg
上は水城の航空写真です。現在も崩れずその姿を保っているということが本当に凄いですね。

3)水城訪問
以下は、水城を訪れた時に撮った写真です。この後、阿蘇のゲストハウスのチェックイン時間に間に合うために、ここではあまり滞在時間を長く取ることが出来ませでした。

DSC05386.jpg
水城の東門礎石跡。上写真では見にくいのですが、写真下のほうに門柱をはめ込んだ穴のある礎石が見えます。

DSC05396.jpg
展望台から見た水城の土塁。1300年以上前に作られた土塁がはっきりとした形で残っています。

4)白村江の戦いの謎
今を遡ること1300年以上前に、日本は第二次世界大戦以外で他国に大敗北を喫したことがありました。それが、白村江の戦いです。
この白村江の戦いは、先に水城の歴史の中で書いた通りですが、ここでは、もう少し詳しくこの戦いに至る歴史的経経緯を見て見ることにします。

白村江の戦いが起きる前の朝鮮半島では、百済・新羅・高句麗の三国が抗争を繰り返していましたが、新羅は唐と結び、白村江の戦いの3年前、660年3月、唐の高宗は水陸13万の大軍をもって百済を襲い、新羅の武烈王も5万の兵を百済に進攻させました。これにより百済の義慈王は降服し、百済は一度滅びました。

その後、唐が主力を高句麗に転じた間隙に、百済の遺臣鬼室福信は倭に使者を派遣。援軍の派遣と人質として倭にいた百済の王子・餘豊璋の送還を要請しました。斉明天皇は詔して救援の決意を使者に伝え、661年1月斉明天皇は難波を出発し筑紫へ向かいました。しかし7月に、天皇は朝倉宮にて崩じてしまいます。その後、中大兄皇子が称制することになり、8月には救援軍を編成して豊璋を百済に送還し、4662年豊璋は百済王として即位しましました。このことによって百済復興の軍は大いに勢いづきました。

しかしその後、大和朝廷が百済への援軍として送った2万7千の兵からなる大船団は、663年8月白村江で唐の水軍と激突し、壊滅する程の大敗北を喫しました。日本書紀は、「官軍やぶれぬ。水に赴きて溺れ死ぬ者おおし。舳艫めぐらすことを得ず。(たちまちに敗れ、水に落ちて死ぬ者が相次いだ。船の舳先を廻らすこともできなかった。)」と伝えています。旧唐書には、「仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙焔漲天,海水皆赤,賊大潰。(旧唐書列傳第三十四劉仁軌)」船400隻を焼き、炎は天を覆い、海は血に染まったとされています。
この敗戦の中、豊璋は高句麗へ亡命し、百済の遺民達は9月24日弖礼城(てれさし)に集合し、翌25日に船で日本に向かったと日本書紀は記しています。
            白村江の戦い

この大敗北で、唐の日本侵攻を恐れた大和朝廷は、大急ぎで守備固めを進め、664年に対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり-東日本出身の兵隊)や通信手段としての「烽(とぶひ)」を置き、水城を造成、そして翌665年に大野城を築くことになります。

ただ、この白村江の戦いには不思議なことがあります。それは、この白村江の戦いが行われたときには、実は既に百済は滅びており、如何に友好関係にあった百済のためとは言え、いったんは亡んだ国の再興のために、大国唐と隆盛期にある新羅との連合軍を相手に、下手をすれば亡国の憂き目に遭いかねないような救援軍の派遣を大和朝廷は何故決めたのかということです。

これには、諸説あるようですが、Net上で以下の説明を見つけましたので、それを紹介したいと思います。

1)理由その1
百済と日本は、4世紀頃から続く友好国の関係にあった。日本書紀には、『475年高句麗によって滅ぼされた百済は、477年に雄略天皇が百済王に熊津の地を賜って再興させた』との記述もあり、天皇家とは強い繋がりがあったことも伺える。また、414年に建てられた有名な広開土王碑の碑文に、”399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした”との記述があり、古代日本が朝鮮半島に影響力を持っていたことがわかる(韓国はそれを認めたがらず、最近まで碑文は日本の陸軍が改竄したと主張していたが、調査の結果碑文の改竄はなかったことが判明した)。
そして、白村江の戦いの前には、百済王子・扶余豊璋が日本に(人質として)滞在中で、これは準皇族扱いを受けており、儀式にも出席していた。日本は百済王子が朝廷に仕えることで、“東アジアの雄”としての面目を保てる訳で、扶余豊璋には丁重に接した。そんな百済が滅びたとなれば、当然ながら友好国として百済再興に力を貸そう意識が働いたことも考えられる。また、当時百済からの渡来人を祖先を持つ貴族も大和朝廷の中にいてその力が働いた可能性もある(この部分は推測)。これらの感情面が百済再興の戦をすることを決定させた一因と考えることが出来る。

2)理由その2
感情面は別にしても、政治的・軍事的に考えて、百済滅亡は日本の危機を呼び起こす可能性があった。
日本の国益を考えた場合、朝鮮半島に統一国家が成立するよりも、分裂した状態で、かつ唐や他の勢力との緩衝帯として日本との間に存在していることの方が、日本にとって都合が良かった。(実際に、朝鮮が新羅に統一された後、日本は「新羅の賊」から度々侵略を受けることになったし、鎌倉時代には元の支配下になると日本は武力侵攻を受けている。李氏朝鮮は対馬占領軍を送り込んだこともあった。)
また、日本は4世紀には朝鮮半島に軍を派遣していましたが、朝鮮諸国が国家として整備されるに従い、任那を喪失すると言う苦い経験をすでにしていた。よって、日本としては友好的な百済が朝鮮半島に存在させる事で自国の安全を確保しようとした。

3)理由その3
軍事的に見て、百済復興は意外と上手くいく可能性があった。
白村江の戦いの前に、百済の大臣・鬼室福信が旧百済で唐・新羅連合軍に叛乱し、これが有利に展開していたという状況があった。実際に百済が復活しつつあるならば、ここに日本軍を投入すれば、勝率は高まることが考えられた。もし、百済が復活したならば、次の百済王は日本滞在が長い扶余豊璋となるので、日本は新生百済に強い影響力を持つことができると考えられた。

この白村江の戦いは、結果から見れば負けてしまいましたが、状況や軍勢の数から見て勝利する可能性はありましたので決して無謀な戦いではありませんでした。大和朝廷は、この戦に負けましたが大きく揺らぐことは無く、信頼と威信は保ちえました。
そして、唐との戦いで敗れた倭国は、天武天皇の時代になって「日本」と呼ぶようになり、政治の方針を大きく変えていきます。日本は唐の優れた政治制度を学び、律令国家を目指しました。また、母国を失った百済の遺民は、日本に安住の地を得て、その結果、彼等は多くの文化を伝えると共に、「日本書紀」の編纂にも深く関わり、多くの歴史を後世に伝えることとなります。
この歴史からも、強い国に学び、優れた文化、政治制度、技術などを導入して独自のものに替えていく日本の姿を見ることができます。


2.大宰府天満宮訪問(福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号)
1)日本神道と"祟り神"
日本の『神道』とは万物に霊魂が宿っているというアニミズム(精霊崇拝)や自然信仰から発展したと考えられる日本の民族的・伝統的な宗教です。神道はその歴史的な起源から特定の教義や聖典、唯一神を持たない信仰の自由度の高い多神教の宗教であり、山や川、森、岩、野生動物、気象(自然災害)など自然の万物に宿る『八百万の神々』を崇拝するものです。また、近代日本の国家神道の神殿である靖国神社に『戦死した祖霊』が神として祀られているように、死んだ祖先や人間(英雄)が神々になるという思想も神道には含まれています。

それでは、太宰府天満宮の祭神である菅原道真公も、"英雄"として祀られたのかというと、それはちょっと違います。今でこそ学問の神として名高い菅原道真公ですが、それ以前は"怨霊"として恐れられていた存在であり、その荒ぶる御霊を鎮めるために、道真公の墓所の上に社殿を建てて、神として祀ったのが大宰府天満宮の始まりなのです。

怨霊とは、恨みを抱きながら非業の死を遂げた者の死霊(もしくは生霊)のことで、当時の人々は、本気で怨霊を信じ、そして怨霊の祟りを恐れていました。そこで、この怨霊を神様として祀リ上げることで祟りを封じるという、日本独特の"御霊信仰"というものが生まれてきたのです。

菅原道真公が学問の神様として崇められるのは、生前の彼の聡明さに由来するものですが、その彼が怨霊として恐れられるようになってしまったのは以下のような経緯があったからでした。

2)菅原道真公と太宰府天満宮の由来
菅原道真公は代々続く学者の家に生まれ、11歳にして詩を詠むなど幼少の頃からその才能を発揮しました。30歳にして貴族の入口である従五位下に叙せられ、33歳では最高位の教授職である文章博士(もんじょうはかせ)に昇進と異例の早さで朝廷の要職に就くことになります。その後、後ろ盾であった父が亡くなり、また道真のスピード出世を良く思わない者も少なくなかったため、道真は地方官である讃岐守(今の香川県)に任命されて都を離れることになってしまいました。しかし、その4年後に転機が訪れます。藤原氏が政治の実権を掌握しているのを快く思っていなかった宇多天皇は、律令政治に精通する道真に目をつけ、宇多天皇から請われて再度上京することになった道真は、宇多天皇のもとで遺憾無くその才能を発揮し、トントン拍子で出世していくことになり、ついには朝廷内実質No2の右大臣まで上り詰めます。
sh20729_2.jpg156e4a08_2.jpg
左は若かりしころの道真公と右大臣となった道真公

しかし、道真の後ろ盾であった宇多上皇が出家したことで、道真は非常に危険な立場になってしまいました。
冷遇されて道真を恨んでいた藤原氏と、宇多上皇の影響力の排除を考えていた醍醐天皇たちの陰謀によって、道真は無実の罪を着せられ九州大宰府へ左遷させられてしまいます。
宇多上皇は処分の停止を醍醐天皇に訴えようと駆けつけますが藤原菅根が取り次がず、そのまま左遷の処分が下ることになりました。
もともと健康では無かった道真は左遷された2年後、再び京都に戻ることなく59年の生涯に幕を閉じることになりました。(903年)

奇怪な現象が起こるのはこれからです。

「北の天神縁起」(菅原道真公の霊を天神として祀る北野天満宮の草創の由来と、その霊験譚を集めた鎌倉時代に作られた絵巻)では、道真の死去した数年後のある夏の夜、道真の霊魂が比叡山の座主・法性房尊意の前に現れて、これから都に出没し、怨みを復讐ではらす決意を述べ、邪魔をしないようにお願いに来たと述べられています。

そしてまずは、菅原道真を追いやった首謀者の一人である中納言・藤原定国(ふじわらのさだくに)が41歳の若さで急死。(906年)
さらには、醍醐天皇に直訴するため裸足で駆けつけた宇多上皇の行く手を阻んだ藤原菅根(すがね)が雷に打たれて死亡。(908年)
この頃には菅原道真の祟りだと一様に恐れ始め、左遷に追いやった張本人、藤原時平は39歳の若さで加持祈祷の甲斐なく病気が悪化し、菅原道真の祟りに怯えながら狂死してしまいます。(909年)

時平の命を奪ったと噂された道真の霊は、その後ますます激しさを加え、時平の子孫たちを次々と死に追いやり、遂に醍醐天皇の皇太子の命まで奪うに至ります。

源光(みなもとのひかる)が狩りの最中に底なし沼に乗っていた馬ごとハマって行方不明。(913年)
醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった保明親王(やすあきらしんのう)が21歳の若さで急死。(923年)
保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)が今度は5歳で死亡。(925年)。

保明親王・慶頼王ともに藤原時平と繋がりが深かったことから、両者の相次ぐ薨去は菅原道真の祟りによるものとの風評が立ちました。
これを受けて醍醐天皇は道真を右大臣に戻し正二位を追贈する詔を発し、道真追放の詔を破棄することにします。
しかし、なおも、台風・洪水・疫病と災厄は収まりません。

延長8年(930年)6月にはなんと、内裏の清涼殿に落雷が発生する事件が起き、多数の死傷者が出ます。(清涼殿落雷事件)
特に死亡した藤原清貫(きよつら)は、かつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を命じられていたこともあり、これはもう、完全に菅原道真の祟りだと、益々恐れられることになります。
落雷の惨状も凄まじく直撃を受けた清貫は衣服を焼損し胸を裂かれた状態で即死。 醍醐天皇はこれを見てショックに打たれたのでしょうか、病に臥し、3ヵ月後寛明親王に譲位、7日後崩御してしまいます。
090214-2.jpg

こうして菅原道真を左遷を企てたもの加担したものは天皇といえどもその祟りから免れることはできなかったと噂されます。しかし藤原家では唯一、藤原時平の弟である藤原忠平(ただひら)だけは、菅原道真に同情の思いを寄せていて、励ましの手紙などを送っていたこともあり、祟られてはいません。ライバル達が全滅してしまって藤原忠平はこの後、摂政・関白となって藤原北家を支えていきます。忠平は、寛大で慈愛が深かったので、その死を惜しまぬものはなかったといいます。
 
これだけ関係者が死亡してしまうと、因果関係がやはりあるのではないかと思ってしまいますが、菅原道真公自身が実際に呪いの言葉を残した事実はありません。しかし、これらの事故が全て"道真の祟り"とされてしまったのは、関係者の心に余程やましいものがあったからなのでしょう。

醍醐天皇は、まだ在命中に、菅原道真の怨霊を鎮めるために、左大臣藤原仲平を大宰府に下向させ、919年に道真公の墓所の上に安楽寺天満宮を造営させました。これが後に太宰府天満宮となります。その後、947年に京都内にも道真の怨霊を鎮めるために北野天満宮が建てられ、御霊、雷神として祀られることになりました。しかし、道真公の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、生前の道真公の聡明さにあやかって「学問の神様」として祀られるようになって行き、そのまま現在に至ります。
本来、道真公は温厚な人柄でしたので、怨霊として恐れられるのではなく、"学問の神様"として崇められている現在の状況を喜んでいるのではないでしょうか。

3)太宰府天満宮訪問
自分が大宰府天満宮を訪れたのは、元旦前日の大晦日でしたが、それでも天満宮内は多くの参拝客で賑わっていました。

表参道から鳥居をくぐって境内へ入ります。
DSC05283.jpg

境内に入ってすぐのところに御神牛の像がありました。
DSC05308.jpg
天満宮の境内には多くの牛の像が置かれています。太宰府天満宮のホームページに「道真公が59歳の春に亡くなられた時、お亡骸を乗せた牛車が、都府楼の北東(うしとら)の方向へ向かって進んでいたところ、まもなくその牛が動かなくなり、それを道真公の御心によるものだとして、牛車の止まったところ、当時の四堂のほとりに御遺骸を葬った」ことが紹介されていいて、それが道真公と牛との関わりとも考えられますが、実はこれ以外にも諸説あって、現在では分からなくなっているようです。
神牛の頭を撫でると頭がよくなるそうで、まぁ今更どうでもいいけれどと思いつつ、毎回撫でています。

境内の中程にある心字池にかかる太鼓橋を渡って、更に奥に進みます。
DSC05287.jpgDSC05288.jpg

右手に志賀社があります。
DSC05292.jpg
檜皮葺きの末社で、海の神綿津見(わたつみ)三神を祀ってあります。室町時代に再建された国の重要文化財です。

太鼓橋を渡ってまっすぐ進むと右手に手水舎が見えました。
DSC05296.jpg

そして正面が楼門です。
DSC05295.jpg
明治時代に火災で焼失し、現在のものは大正3年(1914)に再建されたものだそうです。

楼門をくぐると、本殿に対面します。
DSC05297.jpgDSC05302.jpg
檜皮葺きで、正面には唐破風状の向拝がついた、桃山時代の豪壮な様式で、国の重要文化財です。
本店の右に「飛梅」、左に「皇后梅」が植わっています。

「飛梅」は、都を追われた道真公が都を離れるときに、庭の梅を見て、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ」と詠んだところ、やがて道真公を慕って一夜のうちに京の都から空を翔けてきたとの言い伝えがあります。

さて、参拝が終わると表参道をブルブラしてみます。
DSC05273.jpg

大宰府名物と言ったらまずこれと言えるのが梅ケ枝餅で、参道の至ところに梅ケ枝餅のお店を見ることができます。
DSC05279.jpgDSC05276.jpg
人気店には長い行列ができています。梅ケ枝餅は、小豆餡を薄い餅の生地でくるみ、梅の刻印が入った鉄板で焼いた焼餅で、その謂われについては、浄妙尼という老女が道真公の御心を慰めるために差し上げたとも、道真公薨去に際して霊柩に供えたものともいわれていますが、千年以上にわたって参拝者に親しまれている名物菓子です。
DSC05311.jpg
早速1個買って頂きましたが、中々美味しかったです。

今回記事をUpするのが遅れてしまいましたが、次回は、阿蘇山周辺の記事をUpする予定です。


PS.祝!『劇場版ガールズ&パンツァー』興行収入が10.5億円突破!

劇場版ガールズ&パンツァーの興業収入が10.5億円突破し、「あの花」を抜いて 現在深夜アニメ興行収入4位になったそうです。まずはおめでとうございます!

深夜アニメ劇場版興行収入
1. 28.4億 121scr 「ラブライブ!The School Idol Movie」松竹 (更新中)
2. 20.8億 129scr 「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語」ワーナー
3. 19.0億 137scr 「映画 けいおん!」松竹

4. 10.5億 *77scr 「劇場版ガールズ&パンツァー」ショウゲート ※更新中

5. 10.4億 *64scr 「劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」アニプレックス
6. *8.5億 *24scr 「涼宮ハルヒの消失」角川書店
7. *8.5億 102scr 「劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス」東宝映像事業部
8. *7.4億 *94scr 「劇場版 TIGER & BUNNY -The Rising-」 松竹/ティ・ジョイ
9. *7.0億 *38scr 「劇場版マクロスF 恋離飛翼」クロックワークス
10. *6.7億 *39scr 「THE IDOLM@STAR MOVIE 輝きの向こう側へ」

何しろ、自分もガルパン劇場版を4回観に行ったので、この興業収入10.5億突破にはある程度貢献したかも。
まぁ、自分の場合は、2回目以降は殆ど来場特典狙いというところに若干引け目を感じてしまうのですが、興業11週目の来場特典はダブル生コマフィルム配布とか何が何でも10億を越えてみせるという興業側の強い意思を感じましたので、例え入場特典ゲットが目的でも、興業側の誘いに乗って映画館へ足を運ぶのは結構アリだなと勝手にいい方へ考えることにしました。

ただ、このダブル生コマフィルム配布には、ちょっと意見をしたくなることが起きました。
この興業11週目の来場特典が開始される初日の1/30(土)は、自分は会社へ出勤せねばならなかったので、レイトショーを見に行くつもりでした。
仕事が終わった後、念のためこれから行く予定の名古屋109シネマズへ来場特典は残っているかどうかを確認してみたところ、なんと、3回目の上映への入場途中で品切れになってしまったとのこと。...あのなぁ、いくらなんでも配布初日の3回目の上映途中でなくなってしまうとは、用意していた数が少な過ぎない?
そこで、名古屋109シネマズへ行くのを急遽取りやめ、愛知県内の別の映画館へ問い合わせたところ、豊橋の近くにある映画館で来場特典がまだ残っていることがわかったので急いでWebにて次の日の上映の席を予約し、翌日の日曜日に高速を1時間飛ばしてMOVID三好というイオンタウン内の映画館へ行って来場特典をGet出来ました。やれやれ。
しかし、特典をGet出来たから良いようなものの、どうも主催側の準備不足のような気がして釈然としません。来場特典は、興行側が見に来てくださいと誘っているようなものですから、それに応えて来場した客には、出来るだけ来場特典を配布できるようある程度十分な数を用意してもらいたいところです(来場者全員に配布するのが無理なことは理解しますが、初日の途中でなくなってしまうのはいくらなんでも少なすぎです)。

さて、苦労して手に入れた生コマフィルムですが、以下のようなショボいものでした。
ガルパン特典1
ガルパン特典2
なんじゃコレww

生コマフィルムと言っていますが、現在はデジタルデータを上映しているので、実はこの生コマフィルムは、実際の上映に使われないお土産のようなものなのです。ですので、かなり高い確率で、何らかのキャラクターが写っているフィルムをGetできるものと勝手に想像していましたが、まさか2枚とも戦車だけとはなぁ...。この前メインキャラが写っていた生コマフィルムを手に入れることができたのは、結構運が良かったのかも。

さて、実はこのガルパン劇場版は2/20から4D上映が行われる予定なのですが、もうこうなったら、この4D上映を体験しに5回目のガルパン劇場版視聴へ行ってきます!我ながらよくやるよなぁ...

福岡訪問-その①-(福岡城、大濠公園、and 櫛田神社)

福岡城は、JR博多駅から西へ車で約20分、中洲、天神を抜けて、福岡市中央区に位置します。しかし、多くの地元の方々にとって、ここは城址というよりも、大濠公園もしくは舞鶴公園といった方が通りが良いかもしれません。ここには、かつて櫓総数47基、規模はあの熊本城をも凌駕する大城郭が存在したのですが、どうもこの城に対して地元の方々の関心はあまり高くないようです。城好きにとってはちょっと寂しい気もするのですが、それには、どうも博多という街が持っている長い歴史が関係しているようです。
DSC05125.jpg

1.福岡城の歴史
関ヶ原以前の福岡地区を領していたのは小早川氏であり、海辺にある名島城(現・東区名島)を居城としていました。
小早川秀秋が領主であったときに関が原の役が勃発し、彼は土壇場で西軍から東軍に寝返り、東軍の勝利へ貢献しました。それを徳川家康に認められ、小早川秀秋は備前(岡山県)・美作の地を与えられ、岡山城に移っていきました。
小早川氏の後、関が原の戦いの功績で家康に気に入られてた黒田長政が博多一帯の街・五十二万石をもらって、名島城に入城してきました。黒田長政は、秀吉の家臣としてその名を馳せた黒田如水の嫡子にあたりますが、関ヶ原合戦で東軍が勝利した背景には黒田長政の諜略による功績が大きく、それに徳川家康が応えた国替えと言ってもいいものでした。何しろ中津12万石から実に4倍以上の領地を持った太守への大出世でありました。
しかしながら、名島城は52万石の太守の城としては海に近過ぎかつ、城・城下町ともに手狭であったので、長政は新しく城を建てるのに良い場所を探して、まだそんなに開拓されてない大濠と那珂川に囲まれた丘陵一帯(現在の中央区赤坂。当時は山だったらしい)を新しい城の築城の地と定め、その地名を福岡と改めました。黒田氏の出身地は備前であり、その備前の国の商業地であった福岡にあやかって「福岡」という地名を付けたと言われています。

縄張りは黒田家24騎のひとりである野口佐助一成で、その見事な石垣は城作りの名手加藤清正からも賞賛を受けたとい割れています。福岡城は慶長6年(1601年)には築城が開始され、7年後の慶長12年(1607年)に竣工しましたが、この壮大な城をわずか7年で完成してしまう手腕は、野口佐助という城作りの名手がいたこともさりながら、やはり長政の築城運営能力の高さの賜物だったと思われます。

こうして出来上がった福岡城は、城内には47基もの櫓を保有する52万石の大名の居城にふさわしい九州で最大の巨大城郭でありましたが、本丸の中央には立派な天守台があるだけで、この城の古図にも天守は描かれていません。これは黒田氏が幕府に遠慮して天守を建築しなかったのだろうと今までは一般的に言われてきました。しかし、近年、元和6年(1620)に細川忠興が息子忠利に宛てた書状が発見され、そこには「黒田長政が、幕府に遠慮して天守を解体したと語っていた」といった内容のことが書かれていることがわかりました。このことから、築城当時には天守が存在していたという可能性が高まってきているようです。

黒田氏は、2代忠之のときに黒田騒動が起きますが、無事本領を安堵され、以後12代長知のとき明治を迎えるまで、福岡の地を動くことはありませんでした。

*黒田騒動
江戸時代前期,筑前黒田藩に起きた御家騒動。2代藩主黒田忠之は倉八十太夫を重用して専制を行い,幕府の諸侯取りつぶし策に口実を与える事件を続発させた。そこで筆頭家老栗山大膳は,失政を理由とした藩の取りつぶしを防ぐため,寛永9 (1632) 年,忠之に逆意がある旨を幕府に訴えたが,対決の結果忠之が勝ち,除封を免れ藩は危急を脱し,栗山は南部藩 (→盛岡藩 ) へ預 (あずけ) ,倉は高野山へ追われた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より)

2.福岡と博多
博多という街は歴史が古く、今から2000年以上も前から中国大陸との接点があり、港町として、そして商人の文化で栄えてきた街で、759年の「続日本紀」にも「博多大津」という文字が出てくるほど歴史がある街です。

そこへ、新しく来た領主が急に地名を博多から福岡に変えると言い出したので、当時の住民は猛反発をしたようです。その結果、新しく出来た城下町を福岡と呼ぶことにし、那珂川・博多川(那珂川の支流。この那珂川と博多川との中州が、現在の”中洲”地域となっています)から東側の地域を商人の町”博多”とすることになりました。つまり元々の博多の町はそのままにして、新たに出来た城下町"福岡"と完全に分離してしまったのです。
下図は、城下町福岡及び博多の古地図です。
福岡湖地図3
上図にの右上に描かれている、那珂川・博多川によって、城下町・福岡と商人の町・博多は仕切られていて、当時は、この両区画を自由に行き来ができなかったということです。ただ、その福岡と博多の間にある、福岡でも博多でもない、藩の直轄地域の中洲は違ていて、この地域はは当時から遊郭などの一大歓楽街で、この地域だけが福岡の武士と博多の商人との唯一の接点だったのです。
       福岡湖地図4
上の図は、先ほどの古地図をもう少し分かりやすく現代風にアレンジしたものです。中州が福岡と博多を隔てていたことが良く分かります。

川を挟んで、関所で区切られてたこの2つの町、城下町・福岡と商人の町・博多は、住んでる人も武士と商人という風に違うし、言葉使いもかなり違ってたようです。城下町・福岡ではかなり上品は言葉を使い、商品の町・博多では、もともとは港町だったので言葉は粗かったそうです。ただ黒田長政は城下町・福岡を建設する為に、博多の呉服商や御用商人、大工や鍛冶屋などの職人は、福岡に住まわせた様です。その名残りが、今現在では中央区簀子(すのこ)などで、その時代には簀子職人が住んでた町だったのです。

この福岡と博多の争いは、近世になっても続き、江戸幕府が終わり、明治維新後の1867年、市制および町村制が公布さた時も、福岡市が良いか博多市が良いかで意見が割れ、この時は行政区で福岡県となったのもあり、県として「福岡市」という事に決まりました。この時の返礼として、その年の暮れに九州初の鉄道が開通したとき、駅名を「博多駅」にする事で、「福岡市」派は「博多市」派をなだめたとなどということもあったようです。
しかし、争いはこのままでは終わらず、さらにその翌年の第2回市議会で、「歴史上から見ても、市の名前を博多市に改めるべきだ」という決議案がでてきて蒸し返されることに。そして多数決を取ることになったのですが「福岡市」派と「博多市」派の多数決は同数。しかし議長の票が入ってなく、その議長が「改める必要がなく、福岡市のまま」と福岡市側に入ったため、市の名前は「福岡市」に決まって、この問題に決着がついたといういきさつもあったとのことです。いやはや、長い歴史を持つ街は大変ですね!

そして時は流れて、福博プロムナード計画の一部として平成2年に完成された、那珂川をまたいで博多区中洲と、旧福岡県公会堂貴賓館のある中央区西中洲とを結ぶ、 全長78.2メートルの橋には、"福博であい橋"という名前が付けられました。しかし、上記のようなこの2つの地域の争いというのは、さすがに現代では残っていないのでしょうね。
ただ、廃藩置県が行われて、かつての領主の城が取り壊された後、これらの城を復旧しようなどという運動は、この福岡の地では殆ど起きなかったようです。それは「博多」の人たちが「福岡城」に対する思い入れがなく、そしてつい最近まで、その流れは続いていたので、あまり"福岡城の保存や再建には関心が行っていなかったようなのです。しかし、ここ最近では、福岡城の再建運動のようなものも起こってきているようなので、個人的にはこの流れは嬉しいですね。

3.福岡城訪問
九州に到着した翌日12/30に福岡城を訪問しました。

三の丸から二の丸へ入る松の木坂御門前に車を止めると、そこにある案内板を読んでみます。すると、この福岡城の三の丸以内の遺構はかなり昔の面影を残していることがわかりました。以下に福岡城の古地図と、現代の舞鶴公園のマップを並べて見ます。20100823-01.jpg福岡城マップ

まずは、最初に松の木坂御門の坂を上っていきます。
DSC05123.jpg

松の木坂御門の坂を上って二の丸へ入り、少し歩くと本丸へ続く表御門が見えてきます。
DSC05134.jpg

この表御門の階段を上ると本丸へ入ります。本丸を東側へ歩いていくと祈念櫓が見えてきます。この櫓は本丸北東隅に鬼門封じのため建立されたものです。
DSC05137.jpg

祈念櫓から南に向かって歩いていくと天守台が現れてきます。
DSC05141.jpgDSC05144.jpg

天守台から見た福岡のビル郡。正面に見えるのは福岡ドーム?
DSC05147.jpg

天守台から降りた後、天守台の石垣をぐるりと反対側へ回ると小天守台の石垣が見えてきました。石垣の重なりが実に美しいですね。
DSC05153.jpg

南丸内部から見た多門櫓。
DSC05158.jpg

南丸から見た二の丸の石垣。加藤清正が褒めただけあってすばらしい石垣ですね。
DSC05159.jpg

下から見上げた多門櫓。
DSC05163.jpgDSC05164.jpg

本丸の南側を通って、東二の丸へ出ます。写真は本丸南側の石垣。
DSC05183.jpg

東御門を通って三の丸へ出ます。写真は東御門。
DSC05189.jpg

東御門を出て、少し歩くと"福岡城むかし探訪館"が見えてきました。ここで100名城スタンプがもらえるとのこと。
DSC05188.jpgDSC05187.jpg
しかし、行って見ると、なんと年末の休館で、スタンプが押せないことが発覚!!

う~ん...、年末にお休みを頂くのは当然のこととして、しかし、その場合、せめてスタンプだけは外に出していて欲しかったです!自分は、殆ど年末しか長期休暇が取れないので(そういう人は、自分以外にも必ずいると思います)、そういう人のために、是非スタンプを外に置いておくという配慮をして頂くことを切に望みます。(このスタンプを押すだけのために、もう一度、名古屋から博多へ行かなければならないという辛さを是非分かって頂きたい。)

4.大濠公園
福岡城の外濠で、以前は入り江でもあった草香江をもとに公園化したのが大濠公園です。池を貫くように島がいくつか存在し、それぞれが橋でつながっているので、中央部を経由して池を全体を渡ることができます。隣接した舞鶴公園は、福岡城の本丸、二の丸及び三の丸をそのまま公園にしたものです。
DSC05168.jpgDSC05175.jpg
また、夜間は観月橋と浮島の間のライトアップが行われます(おそらく期間限定と思われますが詳しいことは分かりません)
DSC05241.jpgDSC05238.jpg

5.櫛田神社
博多の有名なお祭りといえば、博多祇園山笠があります。この全国的に有名なお祭りは、福岡市が開催しているものではなく櫛田神社の氏子たちが素戔嗚尊(スサノオノミコト)に行う奉納行事のひとつであり、実は地域の住人の方々が伝統的に行ってきた町内行事なのです。このお祭り700は年以上も続く長い歴史を持ったお祭りで、このお祭りを奉納される櫛田神社もそのはるかむかしから「商売繁盛、不老長寿のお櫛田さん」と博多の人々からあつい信仰を集めている神社なのです。
DSC05193.jpg

1)櫛田神社の由来と仮説
祭神は大幡大神(櫛田大神)、天照皇大神、素盞嗚大神(祇園大神)の三神で、正殿に大幡主神、左殿に天照大神、右殿に素盞嗚神が祀られています。

日本全国にいくつかの櫛田神社がありますが、それらの多くが櫛名田姫を主祭神とする神社であるのに対し、この博多にある櫛田神社では櫛名田姫は祀られていません。実は祇園山笠のお祭りが素戔嗚尊(スサノオノミコト)に対する奉納祭であることは以前聞いたことがあったので、この記事を書くまではてっきり櫛名田姫が主祭神であるとばかり思っていました。櫛名田姫は素戔嗚尊の妻ですから。しかし、この神社は、櫛名田姫とは関係なく、主祭神の大幡大神(大幡主命)は伊勢国松坂の櫛田神社から勧請した神とされています。松坂の櫛田神社の祭神の大幡主神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照大神も一緒に勧請されたと伝えられる。天慶4年(941年)、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都の八坂神社に祈願し、平定した後に素盞嗚神を勧請したと伝えられています。

しかし、これには,主祭神はやはり櫛名田姫ではないかという異説が合って、そのことがWeb上に上がっていました。
以下は、その仮説です。
****************************************
この仮説では、平清盛が1158年に大宰大弐となり、博多に港を開き宋との貿易を本格化させようとした際、自分の荘園があった肥前(佐賀県)神崎の繁栄を、この博多にももたらす事を祈念して、神埼にあった櫛田神社の勧請を行ったというものです。

このことは、神崎の櫛田宮HPにも以下の説明があるとのことです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kusidagu/enkaku/enkaku.html

「当時の中国(宋)との密貿易も盛んに行われ、有明海から神埼の荘園にも迎え入れた。この荘園を実質治め巨利を独占したのが平正盛・平忠盛であり、その子の平清盛が平家全盛の時代を迎える財政的な基を神埼の地で築いたのである。
その貿易品や年貢米の積み出し港である博多に分社をつくり、櫛田大明神の御加護を祈ったという説が通説となっている。
*福岡市が市制90周年として発行した『福岡の歴史』(昭和54年10月発行)にも詳しく記されている。」

また、福岡市総務局編『福岡の歴史』(1979年)にも、そこには、博多の櫛田神社の社地は清盛の博多新設時の倉敷で、そこに神崎の櫛田神社を勧請したのだろう、との記述があるとのことです。

更に、福岡市の「まるごと福岡・博多」では、こう書いてあるそうです。
「社伝によると創建は8世紀の天平宝字元年(757)。 平清盛が博多を日宋貿易の拠点港とした平安末期に御託宣により鎮祭され、平家の社領肥前国神崎庄の櫛田神社を勧請したものだと考えられています。」

神崎の櫛田宮には、祭神として櫛稲田姫命、須佐之男命(素戔鳴尊)、日本武命(ヤマトタケル)の三神が祀られています。
櫛稲田姫命は、須佐之男命の妻であり、八岐大蛇の生け贄になるのを助けた女神様です。この櫛稲田姫命を祭っているので櫛田宮と呼ばれています。
博多の櫛田神社は、この神崎櫛田神社を勧請したのであれば、祭神は同じく櫛稲田姫命であることが考えられます。
主祭神が、櫛稲田姫命であれば、全国の他の地域にある櫛田神社と同じく、夫である須佐之男命も祀られたのではないかというのがこの仮説です。

では、松阪櫛田神社の勧請はどうしたのかと言いますと、それは祇園の櫛田神社ではなく、早良区野芥にある「野芥櫛田神社」ではないかというのが、この仮説の結論となっています。
http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=8523
*********************************************************

個人的には、この仮説のほうを信じたいという気持ちが強いですね。ネットで三重県松阪市櫛田町にある櫛田神社を調べて見たのですが、かなり小さな神社で、この神社が博多から勧進された理由というのがどうにも分からないからです。また、櫛になってスサノオのヤマタノオロチ退治を助けた櫛稲田姫命というのは中々魅力的なお話で、櫛稲田姫命が主祭神であって欲しいという単純な願いのようなものがあるのかもしれません。

2)スサノオのヤマタノオロチ退治伝説
このスサノオのヤマタノオロチ退治と櫛稲田姫命の伝説とは以下のようなお話です。

神話での記述(Wikipediaより)
高天原を追放されて出雲に降り立ったスサノオは、ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われているアシナヅチ・テナヅチの夫婦と、その娘のクシナダヒメに出会った。彼らの話によると、もうじき最後に残った末娘のクシナダヒメも食われてしまう時期なのだという。哀れに思うと同時に、美しいクシナダヒメが愛しくなったスサノオは、クシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出た。スサノオの素性を知らないアシナヅチとテナヅチは訝しむが、彼がアマテラスの弟と知ると喜んでこれを承諾し、クシナダヒメをスサノオに差し出した。

スサノオとの結婚が決まると、クシナダヒメはすぐにスサノオの神通力によって変形させられ、小さな櫛に変えられた。そして櫛としてスサノオの髪に挿しこまれ、ヤマタノオロチ退治が終わるまでその状態である。ヤマタノオロチ退治の準備はスサノオの指示で、アシナヅチとテナヅチが行った。

クシナダヒメを頭に挿したスサノオは、見事ヤマタノオロチを退治する。 ヤマタノオロチを退治した後、スサノオはクシナダヒメと共に住む場所を探して、須賀の地に宮殿を建てた。

(櫛に変えられたクシナダヒメがその後どうなったのかは原文では明記されておらず、元の姿に戻ったという直接的な描写もない。しかし、せっかく命を救われたのに無生物である櫛のままだったとは考えにくく、スサノオがクシナダヒメと共に住む宮殿を建てていること、その直後に「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」と詠んでいること等から、ヤマタノオロチが退治された後で無事に元の美しい娘の姿に戻してもらい、約束通りスサノオの妻になったとする解釈が一般的である。)

以下は、そのときの戦いを描いた版画です。左上に描かれているスサノオの戦いを応援する櫛稲田姫命がとてもかわいい。
o0640038812524505608.jpg

天界でさんざん暴れて、一人ぼっちで地上に追われてしまったけれども、家族も国も出来てよかったな、スサノオ。やっぱり普通が一番だ(何のコッチャ)。
この神話から、スサノオが主祭神である神社の御神徳は、厄払いと縁結びとなっていることが多いようです。

厄払いは、こういった勇猛果敢なスサノオの迫力で厄を払う。。
そして縁結びは、櫛名田比売との運命の出逢いが良縁、縁結びの御利益と繋がっているのでしょうね。

3)(クシナダヒメ-櫛名田比売命-奇稲田姫)の名の由来
クシナダヒメは奇稲田姫或いは櫛名田比売と書かれます。 前者の場合、「クシ」を「霊妙、素晴らしい」ととり、続く「ナダ」は稲田を示しているとして、即ちクシナダヒメは豊穣・豊かな稲田を象徴する女神様です。
父母がテナヅチ・アシナヅチであり漢字で示すと手摩霊・足摩霊となり、これらは「手足を撫でる(摩る)」意味を持つことから、「撫でるように大切に育てられた姫」との解釈もあることから、大和撫子(倭撫子)の語源であるともいわれているようです。

神話の中の櫛名田姫はヤマタノオロチに生贄として捧げられる予定だった女神ですが、その女神がヤマタノオロチに生贄として出されるというのは、山の神に「穀物」だとか「生贄」を差し出していたということを表しているのではないかということが、神話の解釈として考えられているようです。

櫛名田姫は稲田の神として信仰されており、全国の氷川神社を始め、様々な神社で祀られている。しかしながら、多くの神社では夫のスサノオと子孫(或いは子)の大国主と共に祀られています。

この櫛名田姫の姿は、出雲国があった島根県にある八重垣神社に、日本最古の神社壁画として以下のように描かれています。
    a0300530_17474610.jpg
現代人の目から見ても、この壁画に描かれた櫛名田姫は美しく魅力的ですね。豊穣の神で縁結びの神でもある櫛名田姫は、昔から多くの人の信仰を集め続けている神様で、その人気は、最近のゲームであるパズドラでも以下のような姿で登場することからも分かります。
Pet804.jpg
更に究極進化した櫛名田姫
2280.jpg
まぁ、こういう萌え化したキャラクターに対する感覚は人それぞれですが、時代が変わるにつれ神様の姿も時代に合わせて変わっていくことは、個人的には別におかしなことだと思っていません。姿かたちにこだわるよりも、たとえどのような形であれ、神様の名前を語り継ぎ、遠い日本人の祖先から続く信仰の思いを途絶えさせないことのほうが大事なことだと考えていますので。

しかし、果てしなく脱線しながら長々と書いてきてしまったのですが、上記の櫛田神社の主祭神が櫛名田姫であるというのは唯の仮説でしかなく、櫛田神社の正式な社伝では、主祭神は大幡大神です。

4)櫛田神社参拝
何だか、とてつもなく話が脱線してきたので、元の櫛田神社参拝へ話を戻します。

1/30に福岡城を訪問した後に、櫛田神社へ参拝しました。
櫛田神社は、福岡市博多区の中洲の手前に位置していて、正に繁華街の真ん中にあるような感じです。てっきり神社は郊外にあるものだと思っていたのでちょっと驚きました。

勇壮な楼門を見上げます。
DSC05195.jpg

楼門の天井に吊り下げられた、干支恵方盤(えとえほうばん)が見えました。まだ、参拝時には年を越していなかったのですが、方位版の干支はすでに猿になっていました。
DSC05210.jpg

楼門を潜って振り返ると、裏側には"博多総鎮守"の額が掲げてありました。
DSC05211.jpg

楼門を抜けると、右手側に手水場、、そして正面に随神門が見えてきます。
DSC05196.jpgDSC05208.jpg

御神牛の像もありました。とりあえず頭をなでて見ました。頭が良くならないかなぁ。いまさらどうでもいいか。
DSC05200.jpg

随神門を潜ると、拝殿に対面します。
DSC05204.jpg

拝殿の右手前には、霊泉鶴の井戸というものがありました。
DSC05206.jpg

拝殿の左手側には「飾り山笠」がありましたが、写真撮り忘れました...

全体にとても華やかな神社という感じでした。大晦日だったので人の数はそれほど多くなかったのですが、元旦は、とてつもなくごった返すのでしょうね。

最後に南神門の写真。
DSC05198.jpg

PS.博多での宿
本当は、食事の写真も載せようと思っていたのですが、相変わらずとてつもなく長くなってきてしまったので、それは次回の記事に回して、今回は宿泊した宿の写真を載せてみたいと思います。
1)博多観光ホテル都
DSC05106.jpg
エヴァンゲリオン車両搭乗+博多一泊の商品で旅行会社がアレンジしたホテルでしたので、このホテル都に一泊しました。
ホテルは博多駅から徒歩5分という便利さで、部屋もビジネスホテルよりワンランク上という感じでよかったです。

しかし、実はこの旅行は、ギリギリまで会社の仕事をしていたので、洗濯をする暇がなく、結局、洗濯が必要な衣類を抱えて旅行に出発という情け無い状態になってしまいました。ホテル到着後、ロビーでコインランドリーの場所を尋ねたけれども、ちょっと恥ずかしかったなぁ。おまけに結局コインランドリーが見つからないという残念な結果で、明後日から着るものが無くなってしまうのでちょっと焦ってしまいました。

2)博多町屋 ゲストハウス界音
DSC05247.jpg
博多での2日目はゲストハウス界音に宿泊しました。受付で、コインランドリーの場所を尋ねると、当然のように複数のコインランドリーの場所を教えてくれました。いやぁ、やっぱり自分にはこう言う宿のほうがしっくりくるかも?
早速、コインランドリーに洗物を押し込んで、その間、近くのスーパー銭湯へ行って来ました。
DSC05245.jpg
普通、ゲストハウスでは相部屋のドミトリータイプを選ぶのですが、今回そちらが満室だったので、仕方なく個室へ宿泊しました。
相部屋より格段に値段は高かったですが、それでもビジネスホテルよりも安かったので、まぁ良いとしましょうか。せっかくの個室でしたので、洗濯が終わり風呂から帰った後は、部屋で仕事をしていました。結局家では仕事が終わらなかったものですから。ここでの仕事は、個室でしたので結構効率よく進みました。それを考えると、個室は正解だったかもしれません。

以下は、界音の中の写真。かなり雰囲気は和風でよかったです。
DSC05253.jpgDSC05256.jpgDSC05260.jpg

次の記事では、博多での食事についてUpする予定です。でも、年末/年始なので、あまり店が開いておらず、残念ながら地元の料理を堪能するまでには至りませんでした。

 | HOME |  »

プロフィール

aiuto!

Author:aiuto!
会社員
英語の勉強と日々気になることを日記風に書いていきたいと思っています。


最新記事


最新コメント


最新トラックバック


月別アーカイブ


カテゴリ

はじめに (6)
英語 (93)
(2013/9月-2014/2月) (35)
(2014/3月-2014/12月) (41)
(2015年) (2)
(2016年) (12)
音楽 (10)
EL&Pの音楽 (1)
King Crimsonの音楽 (1)
広橋真紀子さんの音楽 (1)
音楽雑記 (6)
アニメ感想 (17)
フルメタル・パニック感想 (1)
とらドラ! 感想 (1)
PSYCHO-PASS -サイコパス- 感想 (1)
灰羽連盟 感想 (1)
ゆゆ式 感想 (1)
新世界より 感想 (1)
じょしらく 感想 (1)
男子高校生の日常 感想 (1)
らきすた, みなみけ, 苺ましまろ, あずまんが大王 感想 (1)
Steins;Gate 感想 (1)
とある科学の超電磁砲 感想 (1)
宇宙戦艦ヤマト2199 感想 (1)
ガールズ & パンツァー 感想 (1)
TARI TARI 感想 (1)
花咲くいろは 感想 (1)
今期のアニメ (13)
2016年冬アニメ 感想1 (1)
2015年冬アニメ 感想 (1)
2014年秋アニメ 感想 (1)
2014年秋アニメ (1)
2014年夏アニメ 感想 (1)
2014年夏アニメ (1)
2014年春アニメ 感想 (1)
2014年春アニメ (1)
2014年冬アニメ 感想 (1)
2014年冬アニメ (1)
2013年個人的ベスト10アニメ (1)
2013年秋アニメ 感想 (1)
2013年秋アニメ (1)
今期のアニソン (6)
2014年夏アニメ アニソン (1)
2014年春アニメ アニソン (1)
2014年冬アニメ アニソン (1)
2013年秋アニメ アニソン (1)
個人的お気に入りアニソン(ED編) (1)
個人的お気に入りアニソン(OP編) (1)
アニメ雑記 (57)
趣味 (6)
バイク (3)
車 (1)
時計 (1)
推理小説 (1)
一般雑記 (64)
お城訪問 (22)
旅行 (20)
隣の国の困った人々(特亜3国) (8)

カレンダー

04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

検索フォーム


RSSリンクの表示


リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


QRコード

QR